yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

春日大社第六十次式年造替奉祝 黒川能公演@春日大社境内 奈良春日野国際フォーラム甍(能楽ホール)11月13日

プログラムは以下。

能「野守」「大瓶猩々」
狂言「末広」
解説 増田正造氏

「黒川能」なるものを初めて知った。Wikiに解説があるので、リンクしておく。そこからの抜粋が以下。

山形県の庄内地方に伝わる伝統芸能。国の重要無形民俗文化財(1976年指定)。

世阿弥が大成した猿楽の流れを汲むが、いずれの能楽の流派にも属さずに独自の伝承を続け、500年ものあいだ受け継がれて来た庄内地方固有の郷土芸能である。奉納神事でもあるため、最初にまず能を演じるにあたり、春日神や氏神などの大神の許しを受けるために神主が祈祷してから能を行う。そのため能役者は玄人の能楽師によるものではなく、囃子方も含めて春日神社の氏子が務めるのが習わしである。

一般に黒川能と呼ばれるのは、山形県東田川郡櫛引町(現・鶴岡市)大字黒川にある、807年に創建された春日神社の「王祗祭」で演じられる能のことを指すが、他にも3月23日の祈年祭、5月8日の例祭、11月23日の新穀感謝祭でも舞われる。また羽黒山上の出羽三山神社で7月15日に、鶴ヶ岡城内の荘内神社でも8月15日にそれぞれ奉納上演される。

これから分かる通り、神への奉納神事としての能である。それがいわゆる五流能と言われる能楽との違いだろう。もちろん五流能(観世、宝生、金春、金剛、喜多)も神への奉納が根底にはあるのだが、現代では芸能として見做される傾向が強い。普段は山形庄内にある春日神社の氏子たちが春日神社に奉納している。それを今回、奉納の能として春日大社に奉納された。この貴重な機会を得たのがありがたい。

能の実演の前に能の権威の増田正造氏から解説があった。非常に興味深いもので、ワクワクしながら聴き入った。

「黒川能」、由来は諸説あるようで、確定していないという。なんと五万冊もの文献を渉猟しても結論が出ていないという。ただ、世阿弥よりも後だとういうことだけは判明している。能の黎明期にいわゆる五流能とは違った派として独自の発展を遂げたようである。

「野守」は極めてユニークな能だった。囃子方の登場の仕方、退場の仕方が普通の能とは違っている。またシテの登退場も違っていた。衣装も私たちが観ている能のものとはかなり異なっていた。被り物も然り。「あらすじ」なるものはあってもなきに等しいのかもしれないけど、いただいたパンフレットから抜粋すると以下。

出羽の羽黒山の山伏が山と春日野に立ち寄ると、由緒のありそうな池を見つける。通りかかった野守の老人に尋ねると「野守の鏡」だという名だと答える。自分たちのような野守が鏡の代わりにするからそう呼ばれているが、本当の「野守の鏡」は鬼神が持っているのだと。

山伏は「野守の鏡」にちなんだ古歌を思い出して、それと関係があるのかと尋ねる。野守答えて曰く、その歌はその昔、鷹狩りに訪れた帝が鷹の行方を見失った折、野守が水面に映る鷹を指し示したことから来ているのだと。山伏が本当の鏡を見たいと言うと、野守の老人は「水鏡をみよ」と言って、塚の中にすがたを消す。

山伏が祈っていると、鬼神が鏡を持って塚の中から現れる。鬼神は手に持った鏡に天界から地獄まで映しだし、山伏に指し示す。そのあと、大地を踏み破って、地獄へ帰ってゆく。

一番驚いたのは謡の部分。普通の能のものはその詞は意味をなしているけど、黒川能のものは「うわーん」という倍音がついて回るので、何を語っているのかほぼ不明。一種のトランス状態を引き起こすような謡になっていた。シテもワキもセリフがこの倍音を伴ってのものなので、意味が取れない。でもその効果は抜群。このトランス状態の中で舞台上の演者と天界とがつながり、二者が交流するという仕掛け。それに呼応してみている側もその交流の中に巻き込まれる。

増田氏の解説によると、この能の「万物を映し出す鏡」のモチーフにフランス人(演劇研究者?)がいたく感動したのだとか。また、三島由紀夫の近代能楽集のような現代版を作る構想もあったとか?私はここのところで、興奮してしまった!叶っていれば、面白い芝居になったに違いない。

「野守」と聞けば、当然ながらあの額田王の歌、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」の中の「野守」を連想してしまう。標野とは天皇管轄下にある猟地。そこを守るのが野守というのを、中学生の時に習った。元夫の(時の天皇、天智天皇の弟君)大海人皇子に向けての歌。その頃、額田王は天皇のものになっていた。とはいえ、これは不倫の愛を謳ったというより、一種の座興。額田王は自身の歌の才と、いまだに元夫から「思われている」という自負を示したのである。「野守」と聞くと、この歌を連想する人も多いのでは。「野守」という言葉は、恋愛が醸し出す華やかさを帯びている。

この能が示す神の掟の厳しさ。そこにアリュージョンとして浮かぶ「禁断の愛」。いかにも人間的な世界との対比で、この「神事」である能を見てしまうのは邪道だろうか。

最後の「大瓶猩々」は「野守」よりもずっと鮮やか。赤いカシラをつけた三頭の獅子が舞台狭しと舞う。この獅子が猩々をシンボライズしているらしい。舞台は中国。金山の麓に住む親孝行で有名な酒売りを愛でて、三頭の猩々が舞う。興に乗った猩々たち、甕から酒を飲んで酔いふし、やがて酒売りの徳を讃えつつ、帰ってゆく。

三頭の獅子カシラをつけ、派手な衣装に身を包んだ後シテ、ツレの舞がみどころ。「野守」のようないかにも「奉納舞」という感じではなく、楽しさが伝染するような舞台。軽やかさ、遊び心もたっぷりで、気楽にみていられた。