yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

弘前カルチャー

東北に行くことは仙台を除いて今までなかった。あの震災の後、一度は行きたいと願ってきたのだけど、機会がなかった。先だっての康楽館での「劇団悠」観劇、往きは青森から高速バスで小坂まで行ったのだけど、帰りは十和田南駅から弘前に出て、一泊、その後弘前からシャトルバスで青森空港というルートを採った。弘前に対するイメージは「りんご」と「ねぷた祭り」しかなかった。今回弘前に1泊ではあるけれど滞在できて良かったと、つくづく思った。まさに「百聞は一見にしかず」。こういう街だと、全く想像していなかった。

まず、弘前が青森の文化の中核をなす都市だったというのが、意外だった。以下、Wikiから。

弘前市(ひろさきし)は、青森県西部の市である。日本で最初に市制施行地に指定された都市のひとつ。弘前藩の城下町として発展し、現在も津軽地方の中心都市として、周辺自治体に広がる人口約31万人(2005年時点)の弘前都市圏を形成している。

人口では青森市、八戸市に次ぐ県内3番目の都市。明治22年の時点では仙台市、盛岡市に次ぐ東北3位の人口規模を誇った。江戸期は城下町として、戦前は陸軍第八師団の軍都として、また旧制弘前高校を始めとする学都として栄えた。戦後、第八師団の解散により軍都としての機能は終えたが、国立大学が新設されたことから、現在も学園都市としての性格を保ち続けている。

弘前駅に着いて、まず驚いたのがその賑わいだった。青森駅の周辺と同様の景色を予想していたのが外れた。「ひなびた」感じとは全く違い、ビジネスで活気のある街だとすぐにわかった。駅前のホテルに荷物を置いてすぐ、「100円バス」で弘前城に向かった。その道中の光景に驚いた、なんとヨーロッパの中都市のような趣きの街並み。道路は狭く、両脇の建物に高層のものはない。その建物の多くがかなり年代物で、しかもいわゆる「洋館」。車窓から確認できるカフェのヨーロッパ様式(?)のものの多いこと。

高層ビルが林立する大都会ではないけれど、昔風の洗練が行き届いた街であることが、たった10分程度の道程からも察せられた。強いていうなら、「文化の香り」。「弘前カルチャー」という呼称があるのかどうか知らないけど、まさにその中にいるのだという実感があった。それが徐々に明らかになった。津軽藩のお膝元であった影響はずっと残っていて、それが学都としての性格を持たせることになったのだろう。それが街のいたるところに見られた。

そして、弘前城のある弘前公園の素晴らしさに感動。お城そのものは1873年に「廃城」となり、「本丸御殿や武芸所等が取り壊され」たのこと。もったいない。「現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、8棟の建築と現存12天守に数えられる内の天守1棟が現存する。現存建築はいずれも、国の重要文化財に指定されている」ということだけど、やっぱりもったいない。天守閣は曳家工事のあと、現在補修工事中。移転した天守内には翌日入って見学した。それにしても内部の狭かったこと。

弘前公園の高台な敷地。もともと城主のものだったのが、市民公園として解放されている。これが言語に絶する素晴らしさだった。お城が公園になったものの中では、最も美しいものの一つだと確信する。お城そのものでは、他のお城が優っているのかもしれないけど、付帯する公園の広大さ、手入れの行き届いた美しさではナンバーワンでは。

三の丸から入って、出るとき迷子になった。人に聞いてやっとのことで北門から出た。近くのバス停が「カルチャーセンター前」。NHKのもの。目の前にお城を築いた津軽為信の像が。そういえばバスも「ためのぶ号」といった。

ゆったりとした街の風情はおそらくこの城主と彼の統治の仕方から来ているのかと、勝手に想像した。代々の津軽藩主は文化に対する造詣と理解も深かったに違いない。こういう街ができるには、長い文化の蓄積が要る。それがどこに行っても感じられた。大阪にもその蓄積があるはずなんだけど、今の大阪にはそれが感じられない。「弘前」が貴重なのは、それが現代に生きた形で残っているところ。

明治になって西洋文化が流入した折にも、自らのそれへの確固たる自信があるから、それを受容することにさほど抵抗がなかったのでは。街のいたるところに遺っている洋館にそれが偲ばれた。弘前の街の一番の特徴は、この日本文化と西洋のそれとのバランスが街そのものの姿になっているところ。今までに日本の街で出会ったことのない不思議な空間。またそれに浴する機会があればと思う。