大沼信之作。楽しい作品。狂言の「末広」を素材として、平成3年11月に勘九郎時代の十八世勘三郎が主宰した「第二回勘九郎の会」(於歌舞伎座)で初演されたもの。松羽目物だけれど、新しいものということになる。父、勘三郎のあとを継いで、勘九郎が初めて演じる。故勘三郎のものを見ていないので、比較できないけど、今回の勘九郎はみごとだった。ウキウキした狂言の雰囲気、「ウフッ」というおかしみ、そしてそこはかとないペーソスも醸し出すのに成功していた。父勘三郎の「雰囲気」が再演されていた?
二人の素質はかなり違うようだけど、勘九郎は自身の「素」に意識的に「父」を纏って演じていたように思う。素そのものとはまた異なった、もっと知的な何かを感じた。「計算」といってもいいかも。それは彼が父が自家薬籠中のものとしていた役を演じる際、いつも感じるものでもある。父のそれと寸分違わないように演じるのは不可能。でもこの魅力的な役を演じたい。必然的に父のそれとは違うものになるだろう。でもそこに生じるギャップを、逆手にとって楽しむ。また、観客にも楽しんでもらう。「お父様そっくり」と言われるのもいいし、「あれ、ちょっと違うよね」と言われるのもいい。いずれもが彼の目指すものだから。勘九郎のこの2年ばかりの舞台は、ここの呼吸がうまく機能しているように思う。でも、時として何か切迫したものを感じて、ホロリとしたりもするんですけどね。父祖からの役を代々引き継いで行かなくてはならない歌舞伎役者の宿命のようなものを、みてしまったりもする。
以下、「歌舞伎美人」から。
<配役>
太郎冠者 中村 勘九郎
万商人 中村 国生
宝斉娘福子 中村 鶴松
分限者宝斉 片岡 亀蔵末広がり(末広の扇子)を買い求めるよう命じられた太郎冠者が、商人の口車に騙されて傘を売りつけられたことから起こる大騒動。賑やかで軽妙洒脱な舞踊『末広がり』。
「末広がり」が何を指すのかわからないままに、都で買ってくるように分限者に命じられた太郎冠者。それも太郎冠者が密かに思いを寄せていた分限者の娘の婚礼のためのもの。そう聞いて落ち込む太郎冠者。ここのところの勘九郎、とてもかわいい。分限者という言葉、私は向田邦子さんの随筆を読むまで知らなかった。彼女の一家がお父上の転勤で東京から鹿児島に引越した折、丘の上の一軒家に住んだので、近所の人たちから「分限者」と呼ばれたという行である。懐かしい人に出会ったような気がした。
太郎冠者に「末広がり」だと言って傘を売りつける万商人。この演目は舞踊劇の要素が強いけれど、国生のは舞踊というにはあまりにも硬かった。かなり緊張していたのでは。もう少し肩の力を抜いて演じた方がいい。数年前、「寺子屋」の涎くりを演じた時が一番生き生きしていたように思う。
亀蔵はこういうおっとりした役もそつなく演じれる得難い役者。勘九郎の「実験」にはいつも付き合っているけれど、どの場合も性格俳優の面目躍如たるものがある。今回の分限者はそれらに比べるとずっと演じやすかったに違いない。
鶴松は勘三郎の「芸養子」?最近では、同じく歌舞伎の家の生まれではない梅丸と女形でよく大事な役を務めるようになっている。新春浅草歌舞伎にも出ている。勘九郎と一緒に踊るところがとてもかわいかった。
おそらく勘三郎の「末広がり」よりも若い「末広がり」だったのだろう。洒脱も渋さもその分少ないかもしれないけど、でも清々しさ、フレッシュさが心地良かった。