yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

羽生結弦選手の「神」的選曲、フィギュアスケート世界選手権@ボストン

羽生結弦選手のSP曲、ここしばらくはショパンの「バラード第1番ト短調作品23」が使われている。ピアノはポーランド出身でスイス在住のクリスティアン・ツィマーマン(Krystian Zimerman)。ショパンの弾き中、最も繊細な音色を出すピアニスト。演奏は繊細かつ叙情的。その清らかで豊かな音は聴き手心奥深く忍び入る。故国ポーランドに帰国することのなかったデラシネ者ショパンの悲しみは、これまた故国ポーランドに帰ることのないツィマーマンのそれとも重なる。哀愁に満ちた美しい旋律。また、曲後半の激しい旋律は、当時失恋したショパンの心情を表すものでもある。哀愁と激情との合体。それを指先から再生させるツィマーマンの名演奏。私の最も好きな「ショパン弾き」でもある。

羽生選手がこの曲を選んだのは、まさに神。彼のスケーティングにはジャズ、ロック、テクノ等よりも、クラッシック曲の古典こそが相応しい。クラシックでもオペラのような重厚なものは彼のイメージとはそぐわない。もっと軽やかなもの。それでいて、並々ならない深い思い、悲しみが込められた曲。そこに物語が立ち上がってくるような曲。加えて、外国人として他文化圏での生活を余儀なくされている羽生選手の気持ちを代弁するような曲。誰かのアドバイスを受けたのではなく、彼自身の選択だろう。

西洋のクラッシック曲、いくら内容は彼の心情と呼応する世界を表しているとはいえ、それはある意味彼には馴染みのない世界だろう。それは西洋のスポーツである「フィギュアスケート」にもいえるかも。西洋のスポーツ、その美の判断にも、当然西洋的スケールが適用される。日本人がそれを「演じる」時、そこには当然ながら齟齬、摩擦が生じる。しかし、あえてその齟齬に自身を沿わせることで、異文化の日本人にしか表現できない新たな美を生み出すことが可能にもなる。ここに「異文化」に挑戦する彼の気概を強く感じる。

しかもフリーの曲は「SEIMEI」。ショートの曲が洋の古典なら、フリーの曲は和の物。それも現代の曲。このバランスに、フィギュアスケートというスポーツを、スポーツを超えた普遍的芸術の域に高めようとする、彼の意思を読み取ってしまう。彼にしかできないこと。だからライバルは彼自身。

羽生選手の好敵手、ハビエル・フェルナンデス選手。彼の曲選択も素晴らしい。曲は、プラシド・ドミンゴとパコ・デ・ルシアの演奏による「マラゲーニャ」(作曲:エルネスト・レクオーナ)。「マラゲーニャ」とはスペインのマラガ地方に起こった舞踊および舞曲だとのこと。これも彼自らの選択だとわかる。彼の身体に馴染む音曲に違いない。しかも歌っているのはスペインの誇るテナー、ドミンゴ。この曲の選択に彼の思いが溢れている。羽生選手がクラッシックの古典、ショパンの「バラード」なら、こちらは世界一のテナーが歌うモダン曲。この曲に乗せて、彼の身体が纏う土着性を表現しようとしているに違いない。これも彼にしかできないものだろう。羽生選手があえて自身の出自とは違った曲を選んだのとは対照的に、彼の選択は自身の文化に馴染んだもの。スペイン文化の「華」、自分こそがそれを的確に表現できるという、フェルナンデス選手の意思を感じる。

この二人の選択を見ると、他選手のレベルとの違いが歴然。それは、演技の芸術性を高めるという意思。ここまで明確な形として、それが選曲に表れているのは、この二人をおいて、他にはいない。

もちろん3位になったカナダのパトリック・チャン選手の選択もなかなかのもの。マイケル・ブーブレの「マック・ザ・ナイフ」。スケーティングのテクニックも素晴らしい。ただ、躍動感にあふれたスケーティングは技術的にはトップでも、何かが足らないように感じてしまう。これも羽生選手のあのスケーティングと比較してしまうからだろう。アジア系であるというその出自が曲と対峙したところに生み出される、齟齬のようなものを演出してほしかった。確かに選曲そのもには、彼が「カナダ人」としてのアイデンティティを確かめようとする意思を感じには感じる。しかし、それ以上でもそれ以下でもない。だから、彼の演技はスケーティングをあくまでもスポーツの域にとどめたもの。スポーツ選手にそんなことを言うのは、単なる無いものねだりではあると分かっているんですけどね。

4位の宇野昌磨選手。彼の選曲、「Legends」は現在の彼に合ったものなのかもしれない。スケートをあくまでもスポーツとしてしか捉えていないのでは。その点ではチャン選手と同じ。こういうテクノ系の曲に深みを求めるのはお門違い。芸術性は感じられない。この方のことをほとんど知らないので、ファンには怒られるかもしれないけど、十八歳の頃の羽生選手と比べると、「アーティスティック」志向性が彼には感じられない。まあ、十八歳だから、伸びしろがないこともないのかも。技術的にはもちろんもっと高めることは十分可能だろう。でもスケート素人の私には、そこにはあまり興味がわかない。芸術性を「理解」し、それを高めるというのは、普通は無理。ミューズに「選ばれし人」のみが可能なのかも。