yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「羽生結弦 絶対王者の新たなる旅」 in 『Number』892号 2012年の「ロミオとジュリエット」が転機

『Number』最新号の記事、「羽生結弦 絶対王者の新たなる旅」中の以下の部分が特に感動的だった。

このNHK杯のあとで、それが上手く行った理由を彼は考え、2012年、ニースでの世界選手権に思い当たる。フリーの『ロミオとジュリエット』でSPからの巻き返しに成功、みごと銅メダルを獲得した。なぜあの選手権のことを思いだすのか。ニースの演技が愛おしく胸に刻まれているのは、得点や順位が理由ではないということに気づいたのだという。(略)『同じ演技って一つとしてないんだ。ニースの選手権のあの演技は二度と見られないと言われる。あの後も、ショーとかで何度も『ロミオとジュリエット』を演じても、ニースの演技にはならない。あの会場の雰囲気、身体の状態、ステップでコケたり、17歳という若さのすべてが、あの時にしかないものだった』」という感慨に至る。彼はいう。「今日は『この思いを込めて出来た』という心を大切にして、一つ一つの演技を思い出として残しながら滑れたら、幸せなんじゃないだろうか」と。このまるで悟りをひらいた僧のような、そんな述懐が若干21歳の青年から出て来るなんて、およそ考えられない。

彼の足跡を辿ったDVD、『覚醒の時』を見直してみた。私は競技での演技では2011年の「ツィゴイネルワイゼン」とこの2012年の「ロミオとジュリエット」とがとくに好きで、何度も見直している。2012年版「ロミオとジュリエット」と2013年のものとは違っている。振付けが阿部奈々美コーチからディヴィッド・ウィルソン氏に変わったから?雰囲気がまるで違っている。

そして、「SEIMEI」と2012年の「ロミオとジュリエット」が似ているのに驚いた。2013年以降の羽生結弦さんの演技は、どこまでも西洋的。高く飛びあがり(もちろんジャンプですから、当然なんですが)、華麗な動きで見せる。ちょうどバレエダンサーがそうするように。でも2012年の「ロミオとジュリエット」は、もちろん華麗な動きはあるけど、スケーティングの雰囲気がどこか舞に近い。舞踊というとき、舞と踊りは明確に区別される。2013年版はどちらかというと「踊」の要素が多いのに、2012年版は「舞」の要素が強調されているように思えた。

「SEIMEI」にもそれがみえた。技術点を稼ぐにはジャンプの、つまり上へと飛び上がる動作を稼がなくてはならない。彼が目指していたのは、演技の芸術度をどこまであげるかの方だった(だろう)から、ジャンプをの完成度をぎりぎりまであげ、それをクリアした上で、内面を表現する「舞」を最大限、自由に駆使したい。それは17歳では「制約的」にしか表現できなかったけど、今ならできる。

「SEIMEI」の演技、それには「舞」を取り込み、それを活かしたものにする必要があった。陰陽師が「ぴょんぴょん跳ねて」いるはずもないから。空間を舞によって支配する。それにはスムースなスケーティングが必須だろう。加えて邪気を払うという、空気を切り裂く動作、これも一連の舞に組み込む。ここには、大袈裟にいえば日本の精神そのものが顕れている。凛とした潔さ。そしてなによりも美しさが。とくに曲の後半部にそれが際立っている。

このニースの演技、youtubeでも見れる。イギリス人の解説者が「stunning」、「perfect」、「amazing」を連呼している。そしてこの選手はいずれ世界チャンピオンになるだろうと、予見している。みごとにそれは的中した。

以下はtwitter にアップするべきかも。現在進行中だから。「紅白歌合戦」をみている。ここ何年も観ていなかったけど、羽生結弦さんが審査員で出られるとのことだったので。審査員紹介が終わったところ。初っ端だった。紺の着物におそらく袴。こういう姿も決まっている。さすが!「武士(もののふ)」のおもむき。このあと、「花は咲く」の放映あり?進行表をネットでみても、見当たらず。ということで観るのは中止。懐古趣味が満載で、つまらない。年々視聴率が下がっているのも宜なるかな。羽生結弦さんが視聴率アップに使われたようで、腹立たしい。