yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

玉三郎と中車主演 通し狂言 『怪談 牡丹燈籠(かいだんぼたんどうろう)』@歌舞伎座7月23日夜の部

構成と配役、みどころを「歌舞伎美人」から。

<構成と配役>
第一幕 大川の船
    高座
    新三郎の家
    伴蔵の住居
    高座
    伴蔵の住居
    萩原家の裏手
    新三郎の家
第二幕 高座
    関口屋の店
    笹屋二階座敷
    元の関口屋夜更け


〈第一幕〉         
お峰     玉三郎
伴蔵     中車
お米     吉弥
お六     歌女之丞
萩原新三郎 九團次
山本志丈   市蔵
三遊亭円朝 猿之助
   


〈第二幕〉         
お峰     玉三郎
馬子久蔵   海老蔵
お国     春猿
定吉     弘太郎
お六     歌女之丞
三遊亭円朝  猿之助
伴蔵     中車



<みどころ>
幽霊よりも恐ろしい人間の強欲の深さ
 旗本の娘お露は、一目惚れをした浪人萩原新三郎に恋い焦がれてこの世を去りますが、後を追って自害した乳母のお米とともに幽霊になり、牡丹が描かれた燈籠を手にして、新三郎を訪ねようとします。下男の伴蔵はお露に、新三郎と会えるように懇願されますが、幽霊からの依頼に伴蔵は躊躇します。悩んだ末に女房のお峰に相談したところ、お峰は百両の大金をもらうことを条件に、この願いを引き受けるよう伴蔵を説得し…。
 それから1年後。伴蔵とお峰は、もらった百両を元手に、馬子久蔵の口利きもあり野州栗橋で荒物屋を営みます。店は繁盛し羽振りの良い生活をしていた二人でしたが、伴蔵は料理屋笹屋の酌婦お国に入れあげて、通いつめる始末。それを知ったお峰から厳しく問い詰められます。ついには口論をする二人のもとに、いずくともなく牡丹燈籠が飛んできて…。
 三遊亭円朝の傑作の一つとして知られる怪談噺で、人間の欲望の深さを巧みに描き出しています。原作者の円朝が劇中に登場し、高座で話す演出もあるなど趣向に富んだ作品です。

いささか気恥ずかしくなるような「みどころ」ではありますが、気を取り直して。

今回、玉三郎がやっぱりすごいと思い知らされたのは、中車をあくまでも活かす芝居の演出をしたこと。これ、彼の演出なんです。先日、「鼓童」との競演、『アマテラス』にかなりがっかりしたところだったので、こころから嬉しかった。

彼のお峰はシネマ歌舞伎で2回観ている。ただ、本舞台では初めて。あのシネマ歌舞伎でのお峰の印象があまりにも強烈なので、あれから6年経った今回の舞台、同じだったらがっかりだと思っていた。そこは玉三郎、杞憂だった。中車のもっている演劇の質に合わせて以前とはちがったお峰像を造型していた。玉三郎って人は舞台に貪欲なんですね。もちろんいい意味で。故勘三郎が芸談で言っていたことが本当だったと、あらためて認識した。決して現状に満足しない役者。人間国宝になってもそれは変わらない。しかも他の役者と競演することでそういう彼の資質が最大限出る人。「鼓童」レベルではだめなんですよね。彼と張り合えないから。相手が互角に戦えると分かると、そこから貪欲に吸収しようとする人。たとえそれが自分よりはるかに若い人であっても。こんな人、いませんよ。「筋書き」に彼の話として杉村春子のお峰を参考にしたとあって、納得した。芸に対する貪欲さ。そして自分よりも「下」のものからも吸収しようとする姿勢。もっというならばその「ずるさ」が共通している。

というわけで(?)今回の『牡丹燈籠』の最後、かなり現代劇風です。中車が「立って」います。中車の作劇法の上手さは今年5月明治座での『あんまと泥棒』で知っていたけど、今回もそれ以上のリアリティ。唸りました。現代劇出身の彼が彼らしく、それでいて歌舞伎になっているという、理想的な彼の位置。それを見抜いて彼に伴蔵をさせたという玉三郎の慧眼。これだから歌舞伎はやめられない。そう思わせるだけの役者を配して演出をする玉三郎の先見の明。しかも彼自身がその中車に合わせて役のありようをかなり変えているんですよ。今までの歌舞伎の大御所では考えられない柔軟さ。これにも唸りました。どこまでもついて行きますよ、玉三郎さま。ってわけで、9月の『先代萩』も観ようかと考えている。

さて、今回の公演のハイライトの一つでもある猿之助の円朝と海老蔵の久蔵はどうだったでしょうか。

猿之助の円朝、かなりのものだった。オペラグラスを忘れてしまっていて、三階席のてっぺんからは舞台の彼の顔の表情まで見れなかったので、声の調子のみでの判断。落語の噺というより、むしろ「語り」のよう。もちろんいろいろな表情をつけた語りで、アナウンサー等のものとは違ってはいるけど。でも、やっぱりシネマ歌舞伎での三津五郎と比べてしまう。三津五郎の円朝、傑作でしたよね。江戸の雰囲気が表情、所作、そしてなによりもその語り口からにじみ出てきていて、それが舞台全体の基調を作っていた。ここまで演りきるのに、彼がどれほど研鑽したかがみえましたものね。この人間の性の悲哀を描くある意味陰惨なドラマに、彼の語りが軽やかさを、はずみを付け加える。それによって南北の描く「怪談」世界とは異なるおかしみを醸し出す。こういうの、本物の噺家でも難しいだろう。三津五郎が語るとそういう舞台になっているんですよね。江戸戯作の世界が展開するんですよね。「江戸っ子」にはたまらないでしょうね。

しかもこの三津五郎、馬子の久蔵をも演じていた。この二役、いずれも狂言廻しの役。二役で演じると『牡丹燈籠』全体に大きな化学変化が起きる。実際に起きていた。生で見れなかったのが本当に残念。観客席がどう反応したのかは、永遠に判らないから。

今回はなんと海老蔵が久蔵を演じている。彼が良いのは先人のすごい舞台を気にしていないところ。それに縛られていないところ。三津五郎のあのすっとぼけた久蔵と比べると、これまた酷。でも観ている側は、彼のこういう資質に助けられる。「大丈夫?」って気をもまなくてもいい。海老蔵はどこまでも海老蔵だから。

そして、私が個人的に嘱望するのは、巳之助がお父上の衣鉢を継いで円朝と久蔵の二役を演じること。待ってます!