yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『すりの家』たつみ演劇BOX@朝日劇場5月7日昼の部

長谷川伸の戯曲、『掏摸の家』をもとにして、たつみ座長のお父上の小泉のぼるさんが大衆演劇の小泉版に書き直されたお芝居。以前に一度観ているが、記事にしていなかった。今日のものは以前よりもグレードアップしていたような印象。

ちょうど1週間前に西宮図書館から佐藤忠男著、『長谷川伸論』を借り出してきていて、目を通したところだった。「下層社会の『いき』の構造」という章に、この作品についての批評が載っていた。長谷川伸の原作を読んでいないので、この本から借用するあらまし等は、いささか留保をつけるべきかもしれない。以下はそれをお断りした上での評である。原作では主人公は八木原庄吉という、三十一、二歳の掏摸。ここはたつみ版も同じ。庄吉を演じるのはたつみ座長。彼の住む長屋の隣りに竹丸という四十六、七の声色屋が住んでいる。これをダイヤさんが演じた。これは伸が自分をモデルにしたという。

「庄吉は腕に自信のある掏摸で、その腕に職業的な誇りを持っているような古典的巾着切りであるから、ふだんは、あまり服装のよくない相手などねらわない。ところが、ちょっとヘマ続きで、つい、あまり裕福そうでない子供連れの夫婦ものから財布を掏ってしまう」というのが佐藤忠男さんの庄吉像要約。となると、たつみ版ではかなりの変更があったことが判る。たつみ庄吉は新橋駅で裕福そうなリュウとした身なりの紳士から財布を掏る。原作では上野駅だけど、たつみ版では新橋駅。また、掏った相手の様子も違っている。小泉版の方が、後の展開がよりドラマチックになるからだろう。

たつみ座長は「新橋ステンション」と何度も口にするけど、駅に拘りがあるのかも。新橋駅は日本の鉄道開設起点の駅だから。それに「ハイカラ」イメージを加えたかった?たしかに「裕福そうな人」が出没するのは、上野よりも新橋の方がありそう。でも函館に行く人は上野駅から汽車(!)に乗るはず。といってもお客さんは関西人だから、そのあたりは気にしないだろうけど。

「紳士」の懐中から盗んだ財布には百二十円もの大金が入っていた。気が大きくなった庄吉、今までしたことのない散財をする。大島の着物に上は黒のとんびコート、懐中時計、金縁眼鏡に指には金指輪。これら一式を身につけ、意気揚々と帰宅する。これに「山高帽を被る」はずだったのを、たつみさん、被るのを忘れていたらしい。こういう格好をするというのは原作にはなかったのでは。ここが、このあとの顛末がよりドラマチックになる伏線になっている。

帰宅した庄吉、自分の「手柄」を女房に自慢する。そこがおかしい。時計は「ドンドン」(ロンドン)製。着物も大島。挙げ句の果てに、浅草の「ヨシカミ」が出て来る。前に観た時はたしか新開地劇場だったので、「ハヤシライスがおいしい」というたつみ談に、お客さん誰も笑わず。たしかにおいしいですよね、高いけど。気の大きくなった庄吉、長屋のみんなにうなぎを奢ることを約束する。

竹丸が通りで金に困って自殺しようとしている夫婦連れを見かけ、庄吉に「お前の今日の仕事の相手じゃないか」と糾す。「そうだ、あの二人だ」と、原作の庄吉は答える。「あの二人は死ぬよ」と竹丸。そこからはたつみ庄吉の取った行動と原作の庄吉の行動はほぼ一致する?庄吉は急いで家に取って返し、有り金(残り金)をかき集め、足らない分は家財、着物一切合切を古道具屋、古着屋に売り飛ばし、なんとか百二十円という掏った金額にし、新橋駅(原作では上野駅)で待っている夫婦もののところに急ぐ。竹丸が二人を停めておいたのだった。

そこに居合わせた新聞記者、警官(たつみ版のみ)に「美談」としてとりあげられそうになると、庄吉は妻ともども長屋を逃げ出す。ところが弟の金次を折檻のため屋根裏に残して来たのを思いだし、長屋に忍び足で取ってかえす。それを竹丸にみつけられる。竹丸がどうしても「万歳三唱」で見送るというので、仕方なく承知する庄吉。こっそりとその場を抜けようとする庄吉一家。そこに長屋住人一同による割れんばかりの「万歳三唱」の大合唱。原作では、「庄吉夫婦は転ばぬばかりに、金次を引き摺って逃げて行く」となっている。

原作を多少誇張して、それを小泉版ハイライトにしたのは恐らく三箇所。一つ目はもちろん庄吉が財布を掏った相手。原作よりもたつみ版の方がより説得力がある。もう一箇所は掏った金で庄吉が自分を「飾り立て」、その自慢を女房にするところ。ここ、ホントにオカシイ。立て板に水とたつみ節炸裂。三つ目はなんとか百二十円を捻出するためのドタバタ劇。古道具屋、古着屋との掛け合い。特に古着屋をその詭弁で「説得」し、言い値にしてしまった上、帰る古着屋の背中に負った着物の山から、ちゃっかり何着かくすねてしまうところ。これ、原作にはないのでは。

佐藤忠男さんの『長谷川伸論』では、主として庄吉夫婦の江戸っ子的な「罪滅ぼし」に焦点を当て、届いたうなぎの出前を「弁当」にしてその夫婦者に届けるというところに、当時の下町の江戸の「いきの構造」をみている。たつみ版では庄吉が買ってきたうなぎ弁当を届けるということになっていた。

たつみ版(小泉版)の方が観客、とくに関西の人には判り易いだろうし、大衆演劇の作劇としては原作より面白いように思う。