マリア・パヘスという名を聞いたことがなかった。あの有名がアントニオ・ガデスの舞踊団にもいたことがあるという。フラメンコのこともほとんど知らなかったのだけど、元同僚の先生からお誘いがあり、出かけた。以下が東京公演のサイトについたフラメンコ、及びマリア・パヘスの紹介である。
フラメンコとは、歌、踊り、ギターを組み合わせた、スペイン南部のアンダルシア地方で発祥した芸能。当初は、個人宅を中心に上演されていたが、公演を行う飲食店が出現し、劇場やフェスティバルなど大きな場でも披露されるようになった。その発展には、スペインジプシーが大きく関与しているといわれ、いまもなお、人々の生活に寄り添いながら、継承され続けている。
フラメンコの聖地・セビリアに生まれたマリアは、4歳からフラメンコとスペイン舞踊を学び、15歳でプロデビュー。伝統舞踊であるフラメンコを、現代的なパフォーミング・アートへと転換させた、アントニオ・ガデス舞踊団で経験を積む。その後は、自身の舞踊団を立ち上げ、瞬く間にスターダンサーへと登りつめた。近年では、国立バレエ団の振付や映画出演など、活躍の場を広げ、その魅力を積極的に伝えている。
「フラメンコ界の女王マリア・パヘス」という位置づけらしいことが分かった。
パヘスが今回の公演の題材として選んだのがあのメリメ原作の『カルメン』。以下が同じサイトからの『カルメン』紹介。
19世紀半ばのスペイン・セビリアを舞台にした、男と女の愛憎劇『カルメン』だ。ヒロインのカルメンは、類まれな美貌と自由奔放な精神から、取り巻く男性を次々と翻弄していく。その姿はまさに“ファム・ファタール=理想の女性像”そのもの。男性作家のプロスペル・メリメが描いた、挑発的で魅惑的、不思議と心を掴まれてしまうカルメン像は“イコール(=)スペイン女性”というイメージへとリンクさせるほど、世界中に大きな影響を与える。
パヘスがこの『Yo,Carmen―私が、カルメンー』での狙いを次のように語る。
(メリメの「カルメン」によって)創り上げられたイメージを打ち破るということは、難しい作業で、大きな責任を負うことになると感じました。私が挑んだのは、物語をなぞるようなものではなく、つまり、従来のカルメンとは対局にあるような…。
「ジョーカルメン(Yo,Carmen)」とは「私がカルメン」という意味なんですが、その“私”というのは、個人ではなく、女性たちみんなと捉えています。そのためには、やはり女性としての経験が必要で(した)。
そしてこの「ジョーカルメン(Yo,Carmen)」に託したメッセージは次のようなものだと言う。
なんで未だに、男女の平等は成立しないのか。それはどこからくるのかとうことを自分なりに調べて、問い詰めて。どういう形ならば女性たちは、権利を求められるのか、取り戻せるのかということを考えました。特に声を持たない女性たちの声を、自分の演技を通じて、表現していければと思いました。
アフタートーク、そして上に上げた彼女へのインタビュー等から、彼女の意図が父権制(patriarchy)の上に乗っかったメリメの原作、並びにビゼーのオペラを換骨奪胎し、女性の目から見たカルメン像を描き出すところにあるというのは理解できた。問題はそういうイデオロギー的な整理の仕方をしてしまうと、語り、舞踊、そしてそれらを包括する「Performing Arts」がそのイデオロギーのお題目をなぞることに終始し、それ以上ではなくなってしまうこと。つまり芸術作品ではなく、プロパガンダに堕ちてしまう。これでは「Performing Arts」が「Performing Arts」である謂れがなくなってしまう。
彼女なりにカルメンという女性を再構築しようという意気込みはよく分かった。
ただ、彼女の「高邁な理想」とはうらはらに、また、こういう芸術系大ホールという場にも拘らず、フラメンコが内包する土着性、ある意味暴力的とでもいうべきマグマのようなエネルギーの発露はみられた。でもやはり現地の酒場のようなところで観るのとは、まったく違った代物になっていただろう。皮肉なことに、プラハ国立歌劇場で観たオペラ、『カルメン』でのフラメンコ舞踊の方がずっともとのフラメンコのエネルギーを放出していた。
Youtubeに今回の公演の一部がアップされているので、リンクしておく。