yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『男の花道』in ダイヤDay、たつみ演劇BOX@京橋羅い舞座2014年9月28日昼の部

昨日はお兄さまのたつみ座長の日、今日は弟座長のダイヤさんの日だった。それぞれがご自身で選んだ演目をかけるということで、ダイヤさんの選択した演目は『男の花道』。昨日の『下北の弥太郎』と同じく、劇団としては初めての演目ということだった。もちろんダイヤさんが主演で加賀屋歌右衛門を演じた。たつみさんは土生玄磧役。

大衆演劇では恋川劇団と春陽座でこの演目は観たことがある。歌舞伎では1994年2月、中座で三代目中村鴈治郎(現坂田藤十郎)の歌右衛門、市川左團次の土生玄磧で観ている。ダイヤ版がもっとも歌舞伎ヴァージョンに近かった。にわか稽古だったということだけれど、どうして、どうして、ダイヤさんの歌右衛門は瑕疵がまったくなく、完璧だった。加えて「立て女形」の目が見えないという悲劇、その悲哀を迫真の演技でみせてくれた。舞踊のときと違い、あるいは普段よく演じられる役とも違った、歌右衛門というちょっと影のある、それでいて情に篤い人となりをメリハリをしっかり効かせて演じられ、改めてダイヤさんの演技力に瞠目した。おみそれしました。普段はお兄さまを立てて、というか遠慮されて(?!)あまり前へと出ることのないダイヤさん、この日はのびのびとその力を発揮されていて、観ている側にもそのよろこびが直に伝わってきた。

私は歌舞伎でこの芝居をみて鴈治郎ファンになった。この日に初めてダイヤ歌右衛門に出くわした人はきっとダイヤファンになったに違いない。この芝居のハイライト部は劇中劇の『櫓のお七』で、お七が火の見櫓に昇る場面。でも『男の花道』ではその手前のお七の人形振りの踊りに焦点が合わされている。ダイヤ歌右衛門、一日足らずの稽古とは思えないほど、きちんとした人形振りだった。ふだんの舞踊の精進振りがしのばれた。羅い舞座の棟梁が櫓を正式に舞台に組んだおかげで、セットも歌舞伎の舞台に比しても遜色がないほどだった。この日の客は「ずいぶんと得をした」という感想を持ったに違いない。私のお隣に座られた女性二人のお客さん、歌右衛門の目が見えなくなるところで、「なんとかしてあげて!」と呟き、まさに手に汗しながらみておられた。

私がこの芝居を中座で観て感動したのが、劇中劇になっているところで、とくに歌右衛門がその場の(中座の)観客に向かって、切羽詰まった声、面持ちで「恩人の生死がかかっている。中座させてほしい」と訴える場面。もちろん客席にいる「さくら」(役者)が「いいぞ、いいぞ、行ってやれ!」と応えるのだけれど、鴈治郎の演劇があまりにも真に迫っていたので、さくらでないお客さんたちも「いいぞ、いいぞ!」と叫んでいた。これにホント、感動した。この日の羅い舞座の「一般客」はそれに比べるとオトナシメだったけど。

ワキを固めた加賀谷東蔵役の宝さん、それとお姉さまの小龍さん(役名がわからず)の演技も手堅く、安心感があった。このお二人、ほんとうにお上手。まったく手抜きがないのがすばらしい!

そして、土生玄磧のたつみさん。まさに余裕の演技。年齢的には左團次よりもだいぶん若目。でも貫禄。歌右衛門との再会の折の掛け合いもベタベタしていないのが良かった。歌右衛門の方が情をより濃く表すという形にしておいた方が、歌右衛門のみならず玄磧の品格が上がる。このサラリとした感じがさすがたつみ・ダイヤ兄弟の面目躍如たるところ。

愛飢男さんは玄磧の同輩の医者を演じたのだが、宴席での受け答えでたつみさんに弄られておられた。それでもめげないところ、あっぱれ!田辺嘉右衛門役の瞳太郎さんも武士らしい品格があった。そういえば瞳太郎さん、舞踊でもそうだし、お芝居でも最近の進境ぶりが著しい。

座員一同が「一糸乱れぬ」歩調でこのお芝居を作り上げたという印象が強かった。

舞踊ショーは控えなかったが、たつみ・ダイヤ両座長の相舞踊、「楼蘭」が良かった。なんど観ても感動。たつみさんの「桜通り十文字」が久しぶりに見れたのも大収穫だった。