以下、歌舞伎美人サイトからの引用。
「吹雪峠」
<原作>
宇野信夫<演出>
大場正昭<配役>
直吉 亀三郎
おえん 梅 枝
助蔵 松 也<みどころ>
◆ 極限状態で描く三角関係の人間模様 荒れ狂う吹雪の中、山小屋に辿り着いた助蔵とおえん。おえんは、助蔵の兄貴分である直吉の女房でしたが、助蔵と密通を重ね、駆け落ちをしました。そこへ偶然にも直吉が現れ再会する3人。一旦は2人を許した直吉も、仲睦まじさを目の当りにして耐えきれなくなり、殺気立った形相で2人に出て行ってほしいと言います。固く結ばれていた2人でしたが、死の恐怖から互いを罵り命乞いを始め…。 人間の男女の愛憎と欲望などを描き出した巧みな心理劇の新歌舞伎をご覧いただきます。
筋書によると、新歌舞伎の世話物作者、宇野信夫の大劇場デビュー作だったとか。昭和10年(1935)に東京劇場で二世市川左團次一座が初演したという。宇野信夫は「世話物とは今の世の有様を写し、今の世にうごめく人物を活写するところに面白さがあり、またそうでなければなりません。ですから世話物は現代劇でなければなりません」と書いているという(「私の世話物について」)。「時代は江戸でも現代に通じる人物像を描こうとした」のだという。
3月2日初日にこの芝居を見損ねた。あとでこれが新歌舞伎の「世話物」の新しい試みだったことを知り、どうしても観たくての再訪である。古典歌舞伎の芝居にはほとんどない「心理劇」になっているという点にも興味をひかれた。松也と梅枝の組み合わせにも興味があった。今どきの若い(舞台/映画)俳優たちが「日常的に演じている三角関係」役の心理を、歌舞伎の若い二人がどう演じるのか、それにも興味があった。
結論からいえば、その「心理」とやらには説得力がなかった。これは役者の所為というより、脚本の所為だと思う。上の<みどころ>にあるような「極限状況における人間の浅ましい性」とか「『愛』の脆さ」を描くには、おえんと助蔵と直吉が小屋で再会してからの展開が唐突すぎた。一旦は許した二人を、二人が睦まじくしているサマをみて180度真逆の気持ちになるという直助の心理変容が描けていなかった。一呼吸程度の間でそれを描出するのは不可能である。脚本がそこにもうすこし時間幅(例えば二倍程度)をとってあれば、役者がもう少し踏み込めたと思う。残念。そういえば宇野信夫の新歌舞伎作品でいままで良いものに出会った記憶がない。今回演出した大場正昭は新派文芸部の人だということである。60分という時間制限の中で、微妙な心理の動き、綾を描くことにもう少し長けていてもよかったのではないか。新派劇には「過激さ」が求められない分、こういう修羅場を描くのは苦手ということか。
直吉役の亀三郎は脚本のまずさを彼なりに補って、直吉の複雑な心理をなんとか描こうと最善を尽くしていたのはよく分かった。歌舞伎の役者だから心理劇には馴染んでいない、ましてやこういう急テンポ展開に馴染んでいないであろうけど、そこは現代人、歌舞伎調を外して演じていた。で、最後の場面の吹雪の中での「哄笑」は、現代劇と歌舞伎の融合させた迫力があった。亀三郎は坂東彦三郎の長男だという。去年3月、新橋演舞場での『暗闇の丑松』での岡っ引き役が良かったことを思いだした。
松也は役とに距離があるような感じがした。「こんな短い時間でムリだよ」とそういう醒めた目を感じてしまった。「意志の弱い男」役というのも難しい役どころなのだろう。それをおえんとの冒頭部の会話だけで示すにはムリがある。彼の技量が足らないというより、やっぱりホンが悪いのだ。
おえん役の梅枝はそこをなんとかつじつまを合わせるようがんばっていた。先日みた『切られ与三』のお富役よりよかった。男をダメにする官能的な女の色気を出していた。
廻り舞台のセットはすばらしかった。小屋、その内部もさすが南座と思わせられた。降りしきる雪もよかった。こういう点は歌舞伎の型を踏襲している。ただ後始末が大変そうだった。