yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「ニッポン無名偉人伝3〜ロダンが愛した国際派女優 花子の波乱人生」テレビ東京

たまたま朝食時につけたテレビの番組。女優花子についてはまったく初耳で驚いた。さっそくWikiにあたってみた。生没年は1968年—1945年だそう。貞奴のそれが1871年—1946年なので、二人の存命期間はほぼ重なる。貞奴がロイ・フラー劇場で公演したのが1900年で、花子のそれが1905年とあるので、貞奴が先鞭をつけたあとに花子が乗ったことになる。貞奴はその際、ロダンからモデルの申し出があったのを断っている。花子は1906年にロダンの申し出を受けてモデルになった。彼女をモデルにしたロダンの作品、「死の顔」は今でもロダン美術館に展示されているという。

貞奴を調べ折に、彼女が渡米、渡欧する以前に日本のパフォーミンング・アーツスの劇団がすでに海外にうって出ていたというのを知って驚いた。昔の日本人がいかに進取の気性に富んでいたかを初めて知ったから。明治生まれの日本人の逞しさを思った。彼ら、彼女らのパワーの万分の一でも欲しいものだと、心から願った。花子もその一人だった訳である。

もとは旅芸人一座にいたという。のちに芸者になり、その後結婚、離婚を繰り返し、「コペンハーゲンの動物園の見世物興行の踊り子として、デンマークに渡る。1905年までドイツ、トルコ、イギリスなどを巡業」したとある。これは本当にすごいとしかいいようがない。というのも、このとき花子34歳になっていたのだから。日本の女が逞しかったのは昔からなんですね。

残存する写真で見ると、花子は貞奴のような美貌には恵まれていなかったようである。また貞奴が身に纏っていた優雅さにも欠けている。でも農民出身らしい土着的とでもいうべき魅力がある。でもロダンは一体彼女のどこに惹かれたんだろう。エキゾチシズムだったのは間違いないのだが、それ以上の何を観ていたのか、知りたいと思った。当時の欧米の人がアジア人をどうみていたのか、その一端を知り得るだろうから。

ともあれ、「貞奴プロジェクト」に具体的な幅が出て来たようでうれしい。