yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『番町皿屋敷』松竹大歌舞伎「三代目 中村又五郎襲名披露、四代目 中村歌昇襲名披露公演」@岸和田浪切ホール7月26日

松竹の「歌舞伎美人」からの、配役、みどころについての引用が以下。

<配役>
番町皿屋敷(ばんちょうさらやしき)
   
青山播磨      中村吉右衛門
腰元お菊      中村芝雀
並木長吉      中村種之助
橋場仁助      中村隼人
放駒四郎兵衛     中村錦之助
渋川後室真弓     中村歌六

<みどころ>
赤坂山王神社では、旗本で白柄組の青山播磨が、敵対する町奴の幡随長兵衛の子分から喧嘩を売られ、一触即発のところを播磨の伯母がこれを納めます。血気盛んな播磨のことを心配する伯母は、播磨の縁談を勧めようとします。しかし、播磨は腰元お菊と恋仲の関係で、その気はありません。

 

他方、播磨の屋敷では、縁談の噂話を聞いて不安になったお菊が、播磨の本心を確かめようと、家宝の皿を割ります。最初はお菊を許す播磨ですが、その後、お菊が故意に皿を割ったことを知った播磨は、自分の心を試されたことが許せず、お菊を手討ちにします。

 

皿屋敷伝説を踏まえながらも、近代の恋愛物語として新たに作られた岡本綺堂の新歌舞伎をお楽しみください。

岡本綺堂が『播州皿屋敷』を基に書いた新歌舞伎ということだが、黙阿弥等の江戸時代の歌舞伎作家もよく試みた書替え狂言である。ただ、江戸時代のものと違うのは、そこに西洋演劇臭がするところである。理屈っぽい。人と人との関係を描くとき、江戸時代には自明としてあった(つまり葛藤の対象ではなかった)階級、もっというならば制度の枠組みの中での葛藤を、ことさら際立たせようとしている。そこに、制度の「理」に逆らう形で、ロマンティシズムの色合いが醸し出されることになる。私は個人的にはこういう「中途半端さ」はあまり好まない。古典的歌舞伎のパターンにも、いわゆる新劇のパターンにもはまらないから。たとえば南北のように徹底して歌舞伎調にした方が、あるいはもとの『播州』版の方が、ずっと人の(現代人も含めて)心情に強く訴えるものになったと思えるから。一体、明治になって出てきた「新歌舞伎」は、ほとんどがこの中途半端さの上に成立していて、どれも面白くない。歌舞伎に「理屈」をはめこむなんて、感興の半分以上をそいでしまうことになる。

でも、さすが吉右衛門。その中途半端さをその表現力の巧みさ、精神力のしなやかさで、かなり克服するのに成功していた。下手をすると単なるわがままな「あほ殿」に陥いるであろう青山播磨を、ひとりの人間として造形できていた。でもそれが故に、逆に播磨のもつサディズムを表現するのには難があった。あまりにも造型が上手すぎて、「同情に値する」人物になってしまったから。『播州』版には強烈にそのサディズムが匂い立つ。それを演じきるには、やはりある種の若さ、無鉄砲ともいえるエネルギーが要るのかもしれない。

芝雀は最近動作が緩慢に思えることがあったが、このお菊はすっきりとよかった。

ついでに、この演目、例の幡随院長兵衛と絡んだ芝居であることを初めて知った。江戸の街を闊歩した何組かの町奴とそれぞれの町奴の組についた旗本間の争いが背景になっていたとは。「播州」から「江戸」に場が置き替えられることで、江戸趣味が濃厚にぬり込められることになったのだ。江戸贔屓の綺堂の面目躍如である。

以下は公演ちらし。