yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「葛の葉」(『芦屋道満大内鑑』より)@国立劇場7月4日

時蔵が良かった。以下、公式サイトより。

芝居の第一場を逃してしまったのだが、それが残念だった。羽田空港から国立劇場までの所要時間を甘くみていたのが失敗のもと。時蔵は先月の「貴撰」もよかったが、それを凌ぐ切れのよい溌剌ぶりだった。ここ何年か、たまに観た折、ちょっと沈潜気味と感じたことがあったのだけど、このお芝居では葛の葉(実は狐)と葛の葉姫との二役を演じ分け、秀逸だった。印象的だったのがそのこぼれんばかりの色気。それは「貴撰」のときも感じたものである。時蔵というひと、非常に行儀のよい役者である。アザトイことはしない。つまり客に媚びない。ケレン味もそう出さない。それが「沈潜気味」に感じさせることもあったのだけど、先月の祇園の茶屋女といい、この葛の葉といい、実に艶っぽかった。それが浮ついたものではなく、ずっしりとした確かさでこちらに迫ってくる。きちんとした修錬の上に積み上げ習得した女形の色気。色気といっても「行儀の良い」時蔵、押し付けがましさがない。だからよけいに後を引く。もう一度観たくなる。翌日も翌々日も観劇をびっしりと入れていたので、それが叶わなくて、残念。

女としての色気を感じさせたと同時に、「子別れ」の段ではたっぷりと母の情を魅せてくれた。この葛の葉という役は、女としての性と母性を裏表一体にして演じるところが面白いのだと気づかされた。そこに役者の力量が出るのだろう。狐/人間という二面性がそこに被さってくる。この複雑な役柄を、あっけないほど易々と、どこまでも伸びやかに素直に演じている(ふりをしている)時蔵のすごさに目を開かされた思いだった。

もちろんハイライト部分は母に縋り付く子の童子(のちの安倍晴明)を抱いて襖に別れの歌——「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」——を書き付ける場面である。右手が使えなくなると左手で、両手が使えなくなると口に筆を加えての奮闘である。そのときの子への言葉の掛け方も、もちろん芸のうちではあるのだろうが、彼の優しい心証がよく分かるものでもあった。そしてなんといっても字が上手かった!裏表に書いたものも、口に筆を加えてのものも含めてである。あっぱれ!ずいぶんと練習したに違いないが、それを微塵もみせないところが、この人のすごさである。天然というか自然というか、そういう生来の意匠を身に纏った風に「演じる」なんて、並の芸ではない。この「ナチュラルさ」が彼の最大の武器だと知った芝居だった。

ここしばらく郡司正勝さんの著作をまとめて読んでいるが、その中のいくつかの論文とこの芝居がみごとに重なった。私にとって時宜を得たというべきか、まことにタイムリーな芝居見物だった。とくに、スーパーナチュラルな力をもつひと、たとえば安倍清明などと、役者、力者といった人たちとの近親性を民俗学を援用しながら検証し、その中で歌舞伎を含む芸能の発生を明かして行くという作業は、彼以降の研究者はあまりしていない。芸能の源流と派生、そして発展の過程を民俗学的に辿って行くことは、そのまま芝居のソースになっている民間説話とそれが芝居という形になって結実して行く過程をあらためる作業とも重なる。

再来月は海老蔵が『陰陽師』を舞台に乗せるが、それもそういう流れが今注目されてきていることを考え合わせると、この「葛の葉」という芝居はいろいろな面白いテーマを持っていることが判る。芝居自体がそういう要素で満ち満ちているので、役者はあざといことをする必要がない。その芸修錬のしみついた身体を目一杯「活動」させることで、十分である。鍛え上げた身体を持たずに、下手さをケレンでゴマカスというのがいちばんいけないだろう。時蔵を観ながら、そんなことを考えていた。