「切られのお富」となってはいるが、もちろん『切られお富』(『処女翫浮名横櫛』)。河竹黙阿弥作である。有名な『切られ与三』(『与話情浮名横櫛』、こちらは瀬川如皐作)の書替え狂言である。「の」が挿入されているのは、おそらくわざと(歌舞伎のコピーではないとうこと)だろう。『切られ与三』では、お富の所為で身体を切り刻まれた与三が後日お富を強請る場面があまりにも有名だが、こちらの方はお富がかって自分を傷だらけにした赤間源左衛門を強請るのだ。『切られ与三』が下敷きにあるので、お富強請の場は二重に興趣がある。しかもすごむのが今やお富の亭主になっている蝙蝠安で、こういうプロット構成もいかにも黙阿弥好みである。
そういえばこの演目に最初に出会ったのも、おなじく「たつみ演劇BOX」で、2009年だった。強い印象を受けたので、この狂言について翌年のザルツブルグでの国際学会で発表をしたし、英語論文にもした。その後、大衆演劇でこれを演るのは観ていないが、前進座が京都南座に乗せたのを観た。このブログ記事にもした。
お富を小龍さん、与三郎をダイヤさん、蝙蝠安をたつみさんと、配役は以前のものと同じだった。
蝙蝠安のたつみさんが出色だった。以前もアドリブがところどころに挿入されて、観客を飽きさせない工夫がなされていたが、今回はそれがやや控えめだった。歌舞伎役者以上に古典的でしかも品があるので、蝙蝠安の厭らしさ、人品の卑しさを、そして何よりも「エロさ」を出すのは無理があったけど、それは「たつみ蝙蝠安」の個性としてアリだと思う。
蝙蝠安のお富への性的執着がこの劇の軸になっていて、それはお富の与三郎へのそれと対を成している。そもそも蝙蝠安がお富への執着をより強めたのは、黙阿弥の原作ででも、お富が与三郎への心中立てとして切断した小指をみてからだった。深く沈潜するエロティシズム!蝙蝠安が赤間源左衛門に身体を切り刻まれたお富を「救い」、自分のものにする執着ぶりも、それが発端にある。お富の真の魂胆を分りつつ、お富が源左衛門を強迫する片棒かつぎをするというのも、根のところに彼のお富への性的執着があるからである。それと、彼独自の計算高さ、狡猾さが微妙にからみあった複雑な心理、その発露としての駆け引きを、説得力をもって観客にみせなくてはならない。前進座公演ではこの難しい役を一座の長の中村梅之助が演じたのも、しごく当然のことである。『切られ与三』の蝙蝠安の劇中の布置と『切られお富』のそれとがまったく違っているわけで、座長が演じるべき最重要な役どころといえるだろう。
お富も最初から蝙蝠安の裏をかくつもりなのだが、与三郎への恋慕という純な心情が「邪魔」をしている。蝙蝠安の女に堕落したとはいえ、そこは「恋する女」の純な一念という芯が通っている。「悪婆」の代表格のこのお富、悪婆のもつ情の深さを演じきらなくてはならない。悪婆の「悪」に徹しきれない女の部分を表現しなくてはならない。小龍さんはそれを手堅く演じていて、健気な女の情が切々とこちらに迫ってきた。また原作にある歌舞伎そのもの台詞も自家薬籠中のものとしていたのに、感動した。思わず膝を叩いてしまったくらいである。
前進座公演で不満だったのが最後の「畜生塚」の場だった。ここを完全に省いてしまっていたから。なぜ「畜生」がわざとらしく強調されているかといえば、この芝居の大団円がそこに来るからである。お富の父がお富と与三郎に、彼らが実の兄妹であることを明かし、加えてお富が殺害した蝙蝠安こそが、お富の父の主家の御曹司だった。兄妹が畜生道に堕ちたというこの救いのない結末!それに主殺しまで加わるのだから、結末はより悲惨である。『髪結新三』でもこの畜生道が狂言廻しの役割を負っているが、こういうところいかにも黙阿弥。
たつみ演劇BOXでは、「畜生塚」の碑が立っていたが、複雑な最後のどんでん返しは省略されていた。たしかにやるとなると、役者側にだけでなく、観客側にもある種の準備というか覚悟がいるだろう。だから仕方ないと思うけど、やっぱりいつか原作の「畜生塚」そのままに演じて欲しいと願う。それにしても、大衆演劇はこういう芝居も一晩の稽古で演じるわけで、その制約の中で、よくぞここまでの舞台を仕上げられると、ひたすら頭が下がる。