yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

吉右衛門 in 『俊寛 平家女護島』@歌舞伎座 6月3日 初日

朝一番の公演の三番目の演目だった。サイトから借用した<配役>及び<みどころ>は以下。

平家女護島
三、俊寛(しゅんかん)
<配役>
   
俊寛僧都 吉右衛門
丹波少将成経 梅 玉
海女千鳥 芝 雀
平判官康頼  歌 六
瀬尾太郎兼康 左團次
丹左衛門尉基康 仁左衛門

<みどころ>
◆絶海の孤島に残された男の悲哀
 鬼界ヶ島に流罪となった俊寛僧都、平判官康頼、丹波少将成経は、流人の生活に疲れ果てています。そんな俊寛を喜ばせたのは、成経が島に住む海女の千鳥と夫婦になること。日頃の憂いを忘れて喜び合う三人。そこへ都からの赦免船が到着し、上使の丹左衛門尉基康と瀬尾太郎兼康が現れ三人の赦免が告げられますが、千鳥の乗船は許されません。悲嘆にくれる千鳥を見て俊寛は…。俊寛の孤独と悲劇を描く近松門左衛門の名作をご堪能ください。

<みどころ>にもあるように、原作者は近松。元のソースはもちろん『平家物語』。『平家』でのこの段は涙なしには読めない。『平家』は話自体がもっと直裁的というか、近松狂言のような成経と千鳥、瀬尾や基康といった人物とそれにまつわる挿話はない。ただただ、最後においてきぼりを喰らった「みじめったらしい」俊寛の悲嘆がクレッシェンドで描かれる。私は『平家』を読む前に歌舞伎版を観ていたので、どちらかというと、単純なストーリー構成の『平家』の方が、「俊寛の悲嘆」の描写の点で歌舞伎版より力強く迫ってくることに驚いた記憶がある。

歌舞伎ヴァージョンでは一旦千鳥に自分の席を譲った俊寛が、それでも船が遠ざかるのをみると、身も世もなくそれを追うさまに焦点が合わさっている。俊寛のヒロイックな部分と人間的な弱さとを同時に描くことで、よりドラマティックな盛り上がりを狙っているといえるだろう。

でも私はやっぱり『平家』のあくまでも、どこまでも惨めで情けない俊寛の方がピンとくる。より悲劇的人物にみえる。『平家』の俊寛の悲劇度が100パーセントとすると、歌舞伎版は60パーセント位にしか感じられない。なんといっても『平家』のあの淡々とした情景描写、その極限までに感情移入を排した簡明さゆえに、行間から浮かびあがる人物の悲劇性はより力強く、身につまされるものになる。それに匹敵するものを芝居という形で創り上げるのが、いかに大仕事かがよくわかるのが、この作品である。

悲劇度をあげるのは、役者次第ということになる。「鬼平」の吉右衛門、どうみても適役のはずなのに、どこか「立派」すぎて、哀れさ、惨めさという点でははまり役ではなかった。「菊畑」の一條大蔵卿はあんなにぴったりだったのにと、かなり残念。ないものねだりなのは分っているのだけど。この数日前にテレビで『鬼平犯科帳』の最新版を観ていたから、余計にそう観てしまったのかもしれない。「みっともない」ニンは、どうしても吉右衛門には似合わない。

兼康役の仁左衛門はそれに対して、実にはまり役。この方、遠目でみると若侍に見えるから不思議。瀬尾役の左団次もはまり役。この二人の善/悪一対が歌舞伎ならではの華やかさと盛り上がりを作っていた。