yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「喜撰」歌舞伎座新開場 柿葺落六月大歌舞伎、6月3日(初日)

二人の芸達者と有望若手勢揃いの演目だった。この日は三部になっていて、これは二部だった。一部が「鞘當」、三部が「俊寛」である。その三演目で、これがいちばん楽しめた。歌舞伎美人のサイトにもある「みどころ」解説は以下。

◆ 六歌仙の一人、喜撰法師の洒脱な味わいの舞踊
 春爛漫の京都の東山へやってきた喜撰法師は、茶汲女の祇園のお梶を口説きますが、お梶はあっさりと喜撰を振って立ち去ります。やがて喜撰は迎えにやってきた弟子の所化たちと賑やかに踊ると庵へと帰って行くのでした。
 六歌仙の一人、喜撰法師を軽妙な舞踊仕立てで描く一幕をお楽しみいただきます。

配役は以下。

喜撰法師 三津五郎
所化 秀 調
同 亀三郎
同 亀 寿
同 松 也
同 梅 枝
同 歌 昇
同 萬太郎
同 巳之助
同 壱太郎
同 新 悟
同 尾上右近
同 廣太郎
同 種之助
同 米 吉
同 廣 松
同 児太郎
同 鷹之資
祇園のお梶 時蔵

私がうれしかったのは、三津五郎と時蔵の組み合わせ。思い返せば(オオゲサ)歌舞伎にはまるきっかけを作ったのが、このコンビの南座での園朝噺を基にした『怪談牡丹灯籠』だったから。当時八十助だった三津五郎が新三郎と半蔵を、時蔵がお露とお峰をそれぞれ早替わりで演じ、その斬新さ、ラディカルさに圧倒された。今までに観ていた日本のいわゆる「小劇場」系芝居がつまらなく思えた。それほどラディカルだった。歌舞伎に完全に虜になってしまった忘れられない公演だった。検索をかけたら、それについてのブログ記事があった!感激。

それからはこの二人ががっぷり四つに組んだ演目を観たおぼえがなく、もう観られないと思っていたので、ほんとうにうれしかった。去年、国立劇場で三津五郎の『塩原多助一代記』を観たのだが、あまりピンとこなかった。色んなブログでは礼賛されていたのだけれど。

高位の坊主のくせにスケベな喜撰法師を演じて、「地で演じているのでは?」と思ったほどのハマリ方だった。「楽しくて、楽しくてたまらない」といった体での踊りは、観ているものにも感染する。美しい茶汲女、お梶をみて、うきうきし、なんとか仲良くなろうといろいろな手だてを編み出す様、実に微に入り細に入っていて、舞踊というより、パントマイムだった。前々日にみたパリオペラ座の『天井桟敷』のバレエとも通じるものを感じた。すぐれた踊り手は、その身体一つから、空から有を生み出すことができるのだと、あらためて感じ入った。法師すらも「その気」にさせる祇園の華やぎがまるで見えるようだった。

喜撰が一生懸命に口説けば口説くほど、お梶にはぐらかされて、それが可笑しくも、可愛くもあり、おもわず「何とかしてあげて」と、肩入れしてしまう。お梶にふられても懲りずに、彼を探しにきた弟子の所化たちに、お梶の色っぽさを身振り、手振りで表そうとするところも、天真爛漫そのもの。

弟子たちもそんな師匠の「ふがいなさ」を「また、また. . . . 」と呆れつつも微笑ましくおもっているのもよく分かる構成になっていた。このあたり、ホントにオシャレ。舞台は京都だけど、洒脱で軽妙なところは「オシャレな」ではなく、「イキな」というべきなのかもしれない。

時蔵のお梶も年増女の色気たっぷりで、(彼の身体の方が三津五郎よりも大きいこともあって)、終始主導権を握っている様子が、頼もしかった。当時の茶屋女の風情もかくやあるらんといったサマがよく表現できていた。鬼平が通った茶屋にもこういう色っぽいお姐さんがいたんでしょうね。

所化たちも、松也、亀三郎、壱太郎、梅枝、右近、新悟といった、有望株揃い。一種のお披露目会の様相を呈していた。若手所化とりまとめ役(?)の秀調さんがいい味を出していた。

筋書によると、初演は1831年、江戸、中村座だったそうである