yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『鎌髭』、五月花形歌舞伎@京都南座 5月16日昼の部

昼の部の三番目の演目だった。昼の部ではこれのみ海老蔵が出る。配役、みどころは以下である。

三、歌舞伎十八番の内 鎌髭(かまひげ)
山崎の里鍛冶屋四郎兵衛内の場
市川海老蔵景清にて大荒事相勤め申し候
<配役>
修行者快鉄実は悪七兵衛景清     海老蔵
下男太郎作実は梶原源太       亀三郎
下男次郎作実は尾形次郎       松 也
下女お梅実は梶原妹白梅       新 悟
猪熊入道              猿 弥
うるおい有右衛門          市 蔵
鍛冶屋四郎兵衛実は三保谷四郎    左團次

<みどころ>
「大荒事」にて歌舞伎十八番が復活!平家滅亡ののちも源氏の追手を逃れ、密かに源氏を倒そうと頼朝の首を狙っている景清。一方の源氏も、景清を捕らえようと、策を巡らせているのでした。修験者の姿となった景清がのりこんできて...。
 四世市川團十郎が安永3(1774)年4月江戸中村座で初演しました。今回、海老蔵が新たな構想のもと復活する「歌舞伎十八番」にご期待ください。

上演にあたっての抱負を語る海老蔵の話が、興味深い。普段はさほど饒舌ではなさそうな海老蔵が、役柄の内容に踏み込んだ話をしている。それも父團十郎が演じるはずだったこの景清を演じる責任を負った気負いがあるからかもしれない。以下がその「海老蔵談」を含む『歌舞伎美人』の記事。

勧善懲悪では収まらない『鎌髭』
 歌舞伎十八番『鎌髭』は、四世市川團十郎(当時三世海老蔵)が初演した演目を、海老蔵が新たな構想で復活上演するもので、海老蔵は悪七兵衛景清を演じます。

「勧善懲悪が根本の歌舞伎十八番のなかに、青黛(せいたい)が混じっている意味を明確にしたい」。お馴染みの『暫』の鎌倉権五郎や『助六』、『矢の根』の五郎が紅で隈を取るのに対し、歌舞伎では悪を意味する青黛を取って登場する景清、そこに海老蔵は着目し、源平の合戦の世界を描き出そうと考えます。そして、父、十二世團十郎の遺志を受け継ぎ、今回の『鎌髭』上演に至りました。
 誰も見たことのない場面の芝居ですが、海老蔵が頭の中で思い描いているのは、「罠を仕掛ける人間がいて、罠にはめられることを知っていて乗込んでいく男。わかっていて罠にはめられるので、なんということもなく、仕掛けた相手の負のエネルギーを圧倒し、悠然と去っていく男、その強さを表現できればいいと思っています」。実は、團十郎さんにその強い男、景清役を演じてもらう予定だったそうです。「父は大病を克服し、"蘇る"イメージがある俳優の一人だったので、演じてもらいたかったし、そういう意味合いのせりふも予定しています」。残念ながら願いはかないませんでしたが、自らがその役に挑んでの上演となります。

花道より登場した海老蔵、舞台中央で「口上」となった。上の海老蔵自身の話にもあるように、父が演じるはずだった景清を自ら演じることになったいきさつ、父團十郎がはじめて舞台を踏んだのが南座だったといったエピソード交えてのものだった。海老蔵の口上は今年1月の新橋演舞場でも聞いたが、その折は裃、袴姿だったので、この景清の修験者姿という異様な風体での、また予想しなかった口上は、彼のこの役柄への並々ならない思い入れを強く感じさせるものだった。

四代目團十郎が初演したということだが、ながく途絶えていて、1910年に二世竹柴金作台本の復活狂言として歌舞伎座に乗ったという。今回のものは新たな着想のもとで再構成された台本での上演とのことなので、おそらく「新作」に近い形なのだと推察される。だからこそ、海老蔵は父團十郎に演って欲しかったのだろう。「市川宗家十八番」の一つでありながら長らく消失していたこの狂言を、二人で舞台に上げたかったに違いない。口数少なかったが、彼の市川宗家をそしてその十八番を継承して行く意思が、ひしひしとこちらにも伝わってきた。

もう一点興味深かったのが、「勧善懲悪が根本の歌舞伎十八番のなかに、青黛(せいたい)が混じっている意味を明確にしたい」という彼の談話である。ふつう他の歌舞伎主役、とくに宗家の十八番ものの主役と異なり、この景清は青い髭をはやしている。「青」の隈取りは確かに歌舞伎では悪を表象する。ただその名の「悪七兵衛」は悪い人間ということではない。歌舞伎では「悪」の付く名は強さを表していて、それ以上でもそれ以下でもない。しかし「青」という色は悪役特有のもので、それで隈取られた顔はどうみても「正義のヒーロ―」にはみえない。歌舞伎十八番のヒーローらしくない。だが顔から下は十八番の主人公そのものの出立ちである。このミスマッチがかなり異様な感じを観客に与える。ここにこそ、海老蔵が、そしてその父團十郎が、この演目復活をしたかった所以があるような気がするのではあるが。伝統への挑戦でもあるから。

内容は荒事のそれらしく、あまり意味のないもので、ただただ英雄の豪傑ぶりを誇示させるという体に終始する。この悪か善かわからない外見の「英雄」が悪である鍛冶屋四郎兵(左團次)一味を虚仮にするというオチ、そうなると、「やっぱり彼は真の英雄なのか」と観客は「納得」させられる。でもどこかそこに吹っ切れないものが残ったのだろう、この演目が終わったあと、「えっ、これで終わり?」といったような雰囲気が観客席に残っていた。

海老蔵はさすがお家芸の荒事正統継承者の大きさを備えていた。どういう扮装でも、この人は絵になる。今日は一階席、しかも比較的前の席だったため、先日(三階席)のような台詞の聴き取りにくさはなかった。ただ、去年の新橋演舞場の折の破天荒ぶりが、それゆえの「大きさ」があまり感じられなかった。もっと、はじけてくださいよ、海老蔵さん!

松也と亀三郎がよかった。二つ目の演目が狂言を基にした『太刀盗人』で、その中でも二人の掛け合いが秀逸だったが、その雰囲気をそのまま引きずってみてしまうので、この二人が舞台正面に済ました顔で並ぶと、なんとなくオカシカッタ。もちろんそれは意図されたものではないけど。左團次が能舞台の正面。舞台下、正面に海老蔵。左に松也、右に亀三郎。松也の左隣りは猿弥、亀三郎の右隣が新悟。海老蔵を中心にそれを挟んで彼の腹心の「友」たち。この構図にちょっと感激してしまった。

「成田屋!」というかけ声も数回かかっていて、これもほっとした。ただ、大向こうさんが常駐する三階席からではなく一階席からだったけど。

劇場を出る際、係員の方が『伊達の十役』のちらしを配布していて、びっくりした。帰宅してから空席サイトをチェックしたら、後半に空きが少しあった。もちろん一等席、二等席だが。歌舞伎座では考えられない。来月の海老蔵の出し物、とっくに完売である。こういうところに関西の地盤沈下を最も感じてしまう。観客席も満席のわりには「オトナシメ」で、東京では肌身に感じるあの活気に、いささか欠けているような感じが否めなかった。