yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『心中天網島』竹本義太夫300回忌文楽公演第二部 4月11日

歌舞伎では、「河庄の段」、「天満屋から大和屋の段」、「道行」ともに近松の原作を上方調に「改訂」して演じられることが多い。それは近松の他の作品、『曾根崎心中』などでも同様である。だからストイックな、ミニマリスト的な浄瑠璃の語りは、逆に新鮮である。ムダを一切排し、練り上げられた「語り」が、大夫の口から出てくると、まるで肌に突き刺さってくるような鋭い迫力がある。そのびんびんと響く声が波のようにうねりながら、登場人物の感情を運んでくる。それはやがて渦となって、聴き入る観客を巻き込んで行く。そういう現場に立ち会ってしまった。

文楽協会のサイトからの公演のチラシ。下のものはクリックで拡大。



以下の布陣。

<語り>
「河庄」 中  千歳大夫  三味線 清介
     切  嶋大夫   三味線 富助

「天満屋から大和屋の段」
     口  咲甫大夫  三味線 喜一朗
     切  咲大夫   三味線 燕三

「道行」
     小春  文字久大夫
     治兵衛 睦大夫

 <人形>
     治兵衛  玉女
     おさん  清十郎
     小春   勘十郎

最後の「道行」、文字久大夫と睦大夫のかけあいを聴いていて、今まで気づかなかったある事実が、目の前にぱっと拓けた。ぎりぎり最後の道行きで、治兵衛は乗り気ではないのだ。それまでの小春一辺倒の思いの強さが、どうかしておさんに向かっている。何とも不思議な展開だった。衝撃だった。心中の純粋な悲劇性が減じてしまう。解釈がまったく違ってしまう。

その契機はその前の段にある。小春が死ぬ気とみてとったおさんが、小春を夫の治兵衛に身請けさせるため、ありったけの金と着物を風呂敷に包むあのシーンである。

「私や子供は何着いでも男は世間が大事。請け出して小春も助け、太兵衛とやらに一分立ててみせて下さんせ」と言へども
(治兵衛は)始終差し俯き、しくしく泣いていたりしが
「手付け渡して取り止め請け出してその後、囲ふて置くか内へ入るにしてから、そなた(おさん)はなんとなることぞ」
と言はれて、
はっと行き当り
「アツアさうぢや、ハテなんとせう子供の乳母か、飯炊きか、隠居なりともしませう」とわつと叫び伏し沈む
「あまりに冥加恐ろしい、この治兵衛には親の罰、天の罰、仏神の罰は当たらずとも、女房の罰ひとつでも将来はようない筈、赦してたもれ」
と手を合はせ口説きければ

ここで治兵衛の心の変化が起きたのであろう。以前歌舞伎をみてもまったく気づかなかった治兵衛の「心変わり」である。しかし、この心変わりがあることで、どれほどこの狂言に深みが加わることか。人の心の不思議。治兵衛が本当に惚れていたのは、果たして小春だったのか。おさんではなかったのか。彼自身もそこに気づいたのだ。しかし、もう取り返しのつかないほど事態は深刻になってしまっていた。最終点はすでに決められてしまっている。それを作りだしたのは、他ならぬ自分自身だった。もう後戻りはできない。そもそも小春に惹かれたのも運命なら、このように時遅くしておさんへの思いに気づいたのも運命である。近松はそういう運命に翻弄される、他に選択肢を持ち得ない人間のあり方そのものを、情け容赦なく呈示する。だからこそ、彼の狂言は単なるメロドラマではないのだ。心中という男女の愛のある形を通して、人間が己の力ではコントロール不可能な、彼ら自身、ぎりぎりの最終点になっても気づくことのない強い外的力を描いているから。彼の心中ものの主人公は、そういう人智を超えた不可解な力といえるかもしれない。