yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『新八犬伝』二月花形歌舞伎@松竹座 2月20日

これも行くかどうかぎりぎりまで迷った末に、出かけた。前々日に観た『GOEMOM』にあまりにも感激したから。結論をいえば、『GOEMOM』ほどの過激さはない「普通の」舞台だった。期待した方が勝手なんだけど。

馬琴のあのとてつもなくナガーイ原作を時間内に収めるなくてはならないし、それでいて話の大筋を観客に分るようにしなくてはならないしで、脚本、演出ともに「苦労」だったと想像される。でも『GOEMOM』の後だし、出演役者もほぼ重なるので、もう少し冒険を期待していた。

今回の芝居の筋自体は原作に忠実だったわけではない。同じ馬琴作の『椿説弓張月』でおなじみのモチーフも組み込まれている。三島由紀夫が歌舞伎、文楽にしたあの『椿説弓張月』である。特に崇徳院の怨霊の祟りが事件の発端になるというあたりはまさに『椿説弓張月』。「江戸時代の人の中では、この崇徳院の祟り」は一つの伝説になっていたのだろう。遡って、『平家物語』も、崇徳院の怨霊を鎮めるために書かれたという説もあるくらいである。この設定自体からも分るように、原作の大筋はそのままに、かなりの改変、省略が施されている。世界は南総里見家の没落、再興、趣向は仁義八行の文字が記された八つの大玉を持つ八人の剣(犬)士の活躍を絡ませ、軸にはお家再興のための宝刀「村雨丸」の奪還を据えている。その軸の周りを話が回転して行く。原作は中国伝奇歴史小説『水滸伝』を下敷きにしているが、今回の芝居はそれを歌舞伎調に換骨奪胎している。近親相姦という「畜生道」やら「宝刀」争奪戦といった歌舞伎独特の約束事がそれである。

ただ、その換骨奪胎がもう少し徹底していたら、戯画化の要素を入れていたら、もっと面白かったのではないかと残念。亀治郎の『當世流小栗判官』も似た趣向だったけれど、彼には「演じている自身をみているどこか醒めた目」が感じられた。パロっている部分もあった。原作自体が荒唐無稽の代名詞のような作品だし、テーマもいささか時代錯誤的「勧善懲悪」なのだから、パロディ仕立てにすると面白いところはいくつもあるはずである。唯一それを感じさせたのは、「ばか殿」里美義盛(片岡千壽)だった。

大マジメに演じられているのだけれど、それが募るほど全体として退屈なものになった。ホントにあと一工夫なのだと思う。

花形役者勢揃いといった一陣で、その一人一人が全身全霊をかけて演じていたのが、この芝居でのいちばんすごかったところだと思う。これはほんとうにうれしい驚きだった。愛之助もいつもの控えめな演じっぷりが(普段は少し歯がゆいこともあるのだけれど)、この芝居では生きていた。対する壱太郎は大ハッスル、非常に躍動的な動きを堪能させてくれた。『GOEMOM』でも以前にななかった彼の一面に触れて感激したのだけれど、この『新八犬伝』では彼のエロキューションの確かさを確認することができて、満足。ところどころ、お祖父さまにそっくりと感じる箇所があった。とくに「シ」の発声。息を詰めての発声が板についているんですよね。武智鉄二が聴いたら、きっと喜んだでしょうね。

そして、松也。『GOEMOM』のカルデロン神父での印象があまりにも強烈だったので、そういう目でみてしまった。大真面目に演じていたけれど、どこか外しているとこるがあるように感じられた。それが面白かったし、そこに伸びしろを感じた。前にみた芝居で「?」だった巳之助が、このお芝居では生き生きと活躍していたのも嬉しかった。彼のニンに合っていたからだろう。お父様の三津五郎とは違ったタイプのように思う。

この芝居でも愛之助は宙乗り。夜と合わせて計3回もの宙乗り。破格の観客サービスだった。

また、筋書に載っていた山村恭子さんの解説、「『南総里見八犬伝』と曲亭馬琴」が良かった。