yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

新春浅草歌舞伎「口上」と『勧進帳』@浅草公会堂1月25日第二部

以下は浅草公会堂前の「鏡開き」式の様子。

最近はほとんどしなくなってしまった昼夜連続での観劇。今回は一泊の予定で、しかも翌日の26日には国立劇場の歌舞伎公演チケットを既に入手していたため仕方なくその仕儀になった。結論からいうと、やっぱり観て良かった!第一部の方は海老蔵を除いてちょっとものたらなかったのだけれど、第二部は見応え十分だった。

海老蔵の「口上」。初めて観た。浅草歌舞伎との関わり等、自身の思いも絡ませながらで、なかなか面白かった。14年ぶりとのことで、なみなみではない心意気が伝わってきた。三階席だったので、第一部ではなくこちらを一階の良席でみればよかったと後悔。最も興味深かったのが、『勧進帳』の弁慶を演じた14年前の公演に言及しての「ふだんは緊張しないんですけれども、そのときは足ががくがくふるえました」という件だった。市川宗家の十八番、『勧進帳』。海老蔵は彼の父、現團十郎、そして祖父十一代目團十郎、それに大叔父の八代目松本幸四郎それぞれの弁慶に言及、それらすべてを「背負った」重圧をひしひしと感じているようだった。あの海老蔵にしては、かなり謙虚というか、緊張している様子がして、好感がもてた。

そのあと、新春(おそらく)恒例の「にらみ」。お父さんよりもずっとにらみの効力があるようななかなかのものだった。以下はサイトからの写真。

『勧進帳』は現團十郎、幸四郎、吉右衛門でもみたことがあるのだが、弁慶では今までに観た中で、吉右衛門の弁慶と並んで一番だった。今までみたものと演出が少し変っていたように思う。義経一行が到着してからの義経、四天王の配置がとくにそうで、リアリズムより、様式美を優先させたのでは。これはこれでよかった。というのも義経役の孝太郎が良かったから。全身を緊張させ、それでいて弁慶にすべてを預けているという様、下手な人がしたらまったくサマにならなくなる。

吉右衛門の弁慶の方が海老蔵のものよりいささかウワテだと思ったのが、弁慶が富樫がふるまった酒を呑んで酔ったふりをして「延年の舞」を舞うところ。海老蔵よりも色気があった。富樫とのあうんの呼吸がみごとに表れていて、そこに富樫への男と男の友情のようなものがにじみでていた。観ていて思わずほろりとした。海老蔵版はここがもう一つ情がなかった。短かくあっさりと演った所為かもしれない。

最後の入りの飛び六法はさすがお家芸と思わせる豪快さだった。

富樫の愛之助。弁慶との緊迫した掛け合いはみごたえがあったのだけれど、もう少し役解釈に踏み込みがあっても良かったのでは。なぜ義経一行を通らせたのかは、ここの富樫の解釈にかかっている。つまり芝居全体がその一点に収斂するほどのおおきな要素なのだから、彼独自の解釈をみせてほしかった。今までの役者がしていた真似をするだけでは、富樫という人物が立ち上がってこない。その意味では弁慶よりも難しい役なのである。