yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『夢市男伊達競』(ゆめのいちおとこだてくらべ)@国立劇場 1月26日(日)

副題に「西行が猫、頼豪が鼠」。代々ケレンで馴らした音羽屋の面目躍如たるものがあった。菊之助、辰之助(現四代目松緑)の競演で、音羽屋の看板を背負った公演をみごとに成功させて、「あっぱれ!」というほかなかった。

以下、チラシから三画像を拝借している。最後はチラシ裏で、配役のみならずおおまかな粗筋が載っている。この粗筋、先日の『日本橋』のパンフレットのそれのチンプさに比べると秀逸である。


おりしも浅草公会堂では海老蔵が新春公演に相応しい市川宗家伝来の『曽我対面』と『勧進帳』を乗せている。海老蔵の口上によれば、新之助時代の15年前、「平成の三之助」と呼ばれた菊之助、辰之助とで浅草公会堂の初春公演に乗ったのだという。だから今回の国立劇場での音羽屋公演は海老蔵と対比されるのを想定していただろう。だから、なんとしても成功させなくてはならなかったのかもしれない。

そして、なんといっても菊之助。今まで何回かみてはいたけれど、今回は「この人こんなに深みのある演技をする人だった?」と驚いた。もちろん父母ゆずりの美形で当代ではもっとも女形のサマになる役者だとは思っていたけれど、昨日の舞台ではそれをはるかに凌ぐ奥行きのある表現者へと成長していた。年譜をみたら、2010年松竹座での「團菊祭」で『摂州合邦辻』の玉手を演じている。また、同年、日生劇場でも『合邦』の通しで玉手を演じている。見逃して、残念だった。祖父の梅幸での玉手は二度みたのだけれど、かなり年老いてからだったので「美貌の継母」役にはちょっと無理があった。というものの、この複雑な人物造型、そしてその陰影を出すのには成功していた。菊之助ならそのいずれもクリアできていたに違いない。父の菊五郎は女形をしても、どちらかというと前へ、前へと出るタイプで(立ちのほうがニンに合っているからだろうが)、陰影というのとはあまり縁のない演技のように思う。その点、このお稚児さんのようなカワイイ息子が、祖父の方により近く、控えめにいると見せかけて、実は他の目立つ役者を色褪せさせるだけの力を秘めているのだから、ホント人は見かけによらない。

松緑も辰之助の頃に何度かみている。芸風は良い意味で以前とあまり変わっていない。「やんちゃな若者」とか正義の若武者という役どころがいちばんハマる役者だろう。今度の悪役中心の役作りはちょっときつかったかなと思う。海老蔵が『伊達の十役』で悪役から英雄までを演じてみせたのとは対照的である。でもこの松緑、ヒーロー役では他をよせつけない強みを持っている。この公演では、そのはまり役で登場したのが最後の場面だったのだけれど。

何よりもいちばん感動したのは、前回同様国立劇場文芸課の古典発掘、再演への執念ともいうべき情熱だった。それは番附にある「補綴のことば:黙阿弥の精神を現代風に」に余すことなく表れている。黙阿弥の原作を生かしつつ、それを現代に合わせて書き直す。古典の形式に倣いながら、そしてその精神を継承しながらもそこに今の時代を取り込み、現代の観客の嗜好にあったものにする。それは口で言うのは易しいのだけれど、実際にどういう形にするのかは困難を極めるだろう。もちろん失敗の危険はつきまとう。でもあえて果敢に挑戦するという、その姿勢に感服である。また役者もその気概によく応えて、双方が一丸となって、見事にその挑戦を舞台に結実させていた。菊五郎がいくつかアイデアを出したという。文字通り作者、補綴者、役者が黙阿弥を甦らせたのだ。ちょうど、シェイクスピアが現代の舞台上で斬新な演出のもとに甦るのと同様に。

(12時開演、16時5分終演)という長丁場。でも退屈することはまったくなかった。芝居内容の詳細についてはまた稿を改めたい。