泉鏡花 作
坂東玉三郎 演出
齋藤雅文 演出
<登場人物>
稲葉家 お孝 坂東玉三郎
瀧の家 清葉 高橋惠子
葛木晋三 松田悟志
笠原巡査 藤堂新二
五十嵐伝吾 永島敏行
公式サイトのチラシ写真をお借りする。
以下<公式サイト>からの「解説」と「あらすじ」。
<解説>
この『日本橋』は昭和の文豪・泉鏡花が大正三年に小説として発表し、のちに自ら戯曲化するほど鏡花自身も愛していた作品です。ものがたりは一人の医学士・葛木晋三を巡る二人の芸者お孝と清葉、そして彼らを取り巻く登場人物たちが織りなす人間模様を鏡花独特の美しい台詞廻しで綴られた名作です。今回の日生劇場公演では坂東玉三郎が演出、そして実に二十五年ぶりにお孝役に挑戦いたします。清葉に高橋惠子、葛木晋三に松田悟志、笠原巡査を藤堂新二、抱妓・お千世役には玉三郎に大抜擢された新人・斎藤菜月、そして五十嵐伝吾役には永島敏行と人気と実力を兼ね備えた充実のキャストが実現いたしました。あくなき探究と研鑽を積み重ね、芸と美を兼ね備えた坂東玉三郎ならではの『日本橋』にどうぞご期待ください。
<あらすじ>
大正のはじめ、日本橋には指折りの二人の名妓がいた。稲葉家お孝(坂東玉三郎)と、瀧の家清葉(高橋惠子)である。しかしその性格は全くの正反対で、清葉が品がよく内気なのに引き替え、お孝は達引の強い、意地が命の女だった。医学士葛木晋三(松田悟志)には一人の姉がいたが、自分に似ている雛人形を形見として残し、行方知れない諸国行脚の旅に出てしまった。その雛人形に似ている清葉に姉の俤を見て思いを寄せる葛木は、雛祭の翌日、七年越しの自分の気持ちを打ち明けた。しかし清葉は、ある事情から現在の旦那の他に男は持たないと誓った身のため、葛木の気持ちはよく分かりながらも、拒んでしまう。葛木は清葉と傷心の別れの後、雛祭に供えた栄螺と蛤を一石橋から放ったところを、笠原巡査(藤堂新二)に不審尋問された。そこへ現れたのは抱妓のお千世(斎藤菜月)を伴ったお孝であった。お孝の口添えで、葛木への疑惑は解け、二人は馴染みになった。彼女は清葉と葛木の関係を知りながら敢えて自ら進んで葛木に身を任せようとした。これは清葉に対する意地であった。しかし、お孝には、稲葉家の二階に住みついている五十嵐伝吾(永島敏行)がいた。共にかなわぬ胸のうちを抱え苦しむ二人は――
この解説とあらすじ、表現がかなりチンプしかもセンチメンタル。そのため泉鏡花の作品独自のエスリアルな雰囲気をぶちこわしてしまっている。ここまで「解説」してしまったら、せっかくの舞台が単なるメロドラマになってしまうでしょうに。観に行く人はくれぐれもこれに「騙されない」ように。安っぽいセンチメンタリズムをぶっとばすほどの力強い舞台を玉三郎は現出してくれるから。
ともあれ玉三郎会心の出来だった。この5月、京都南座で『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を観たときにもその表現力に瞠目したけれど、そのとき以上にこの芝居の演技はすばらしかった。実に25年ぶりのお孝だったのだそうである。パンフレットで確認すると、昭和62年2月に新橋演舞場でお孝を演じている。その折の清葉は水谷良重(現八重子)、葛木は片岡孝夫(現仁左衛門)。玉三郎は昭和53年からこの62年のものをふくめて計4回、今回の公演までにお孝を務めた。清葉は水谷良重、波乃久里子、そして葛木は孝夫、安井昌二だった。
玉三郎の身体全体から醸し出される、江戸っ子芸者の意気地、凛とした色香、そしてそれらを包み込む気品に満ちたオーラ。なよなよした、嫋々とした柔らかさ、優しさではなく、どこまでもピンとした硬質の背骨を窺わせる立居振る舞い。男性性にぶれるぎりぎりのところでふみとどまる女性性。それは女性が演じたら表現不可能なものだろう。玉三郎が演じて初めて、生身の身体表現として具現化可能なのである。これだけでも国宝ものである(すでに「人間国宝」だけど)。
泉鏡花の劇世界を描出するのがいかに難しいか。というのも彼の思い描く理想の女性のプロトタイプが、従来のそれとはかけ離れているからである。あくまでも鏡花独自の価値観に則ったものだからである。先日春猿の『滝の白糸』をみてがっかりしたのも、その女性像を造型するのに成功しているとはいえなかったからだ。まあそれは、どんな役者が挑戦しても、所詮うまくゆくはずもないものだろう。鏡花がモデルにしたのが彼が物心つかないうちに亡くなった母だったのだから。「母像」は鏡花の想像力の中でノイズを捨象され、一つの確固たる像に育て上げられた。その造型が彼の描く女性の原型になってしまっているのだ。そのあたりを理解しないと、水車に立ち向かうドンキホーテになってしまう。
玉三郎という人は鏡花にシンクロナイズできるんですよね。それは彼の個人としての境涯が関係しているのかもしれない。でもやっぱりいちばん関係しているのは彼の精神性、より高い芸術への飽くなき挑戦だろう。玉三郎の身体表現、セリフ回しをみたり聞いたりしただけで、瞬時にそれは伝わってくる。鏡花作品を演じるには感性、身体性、そしてなによりも高い精神性が求められるのだ。だから成功させるには、ただただ修錬、精進しかないということになる。普通に結婚し、子供をもったりすれば、おそらくそういう「精神性」の高みを希求するなんで「青臭い」ことは無縁になってゆくだろう。玉三郎がすごいのは、そういう普通の生活を拒絶し、あくまでも芸術の神様、ミューズに仕える巫女になったことである。
清葉は波乃久里子のものを観てみたかった。この人の演技力の確かさ、手堅さは先日の新派公演で確認したところだったので。弟よりスゴイ人なんじゃないかと思わされた。またテレビ版「鬼平」シリーズでの「元女郎役」も忘れられないほどのインパクトがあった。
高橋恵子さん、とてもきれいだったし、もの静かでおもいやりのある芸者という役どころを無理なく演じていた。でもどこかもの足らなかった。玉三郎と一緒に並ぶシーンは、正視するのがいささかきつかった。それほどの差が一目瞭然で、瞬時に観客に分ってしまうというのも辛いものがある。それに発声がまったく違う。新劇の俳優にもいえるし、映画出身の俳優にもいえるが、歌舞伎で鍛えられた発声を身につけた役者と一緒の舞台に立つと、どうしても見劣りしてしまう。発声そのものもあるけど、同時にそういう声を生み出す「機械」としての身体が根本的に違うのだろう。今までにみたところ、身体レベルで歌舞伎役者(もちろん誰でもというわけではない)に匹敵するだけの演者は新派役者、そしてごくわずかの新劇出身の俳優のみだった。
松田悟志、藤堂新二、永島敏行、それぞれに熱演だった。でも玉三郎の周りを巡る衛星にしかすぎない。というか、どうしてもそのようにみえてしまう。玉三郎という人は決して傲慢な人ではない。それでも彼が舞台に登場すると、他の出演者を圧してしまう。玉三郎が元気なうちに、彼の鏡花をみれるだけ観たいと考えている。
劇場はただただ圧巻といえるほど立派だった。完璧に西洋風の造作。だからここで歌舞伎を演じるのは無理だろう。新派劇のこの『日本橋』をやるのも、かなり無理があったのかもしれない。でもそれを逆手にとって、思う存分生かした使い方をしていた。プロップ、照明ともに申し分なかった。これも玉三郎が深く演出にかかわったおかげに違いない。