公演ちらしは以下。
『滝の白糸』
原作
泉鏡花 成瀬芳一 補綴・演出
主たる配役
滝の白糸 市川春猿
村瀬欣哉 井上恭太
春平 田口守
桔梗 瀬戸摩純
南京寅吉 市川月乃助
お辰 市川笑三郎
「筋書」の解説は以下。
文明開化の波が押し寄せる明治中頃の北陸を舞台に、 美貌の太夫・滝の白糸の哀しくも美しい恋物語 劇中で実際に披露される水芸は必見です!
いちばんの問題点は時間制約のため、話の流れが観客に分るようになっていなかった点である。予備知識なくこの芝居を観た客は、話の展開に無理なところがあり、困ったのではないだろうか。唐突なところが多々あった。細部は筋書を読んで、「そういう流れだったのか」と私自身もやっと理解できた。もちろん芝居としての(とくに新派劇の)「滝の白糸」はあまりにも有名だし、漠然と内容は知ってはいても、細かなところ、特に白糸がなぜ欣弥に惹かれるのか、なぜ彼に金銭的援助をするのかが描ききれていないのので、最後の法廷場面での二人の絡みにも釈然としないものが残ってしまう。
新派劇が現代劇のように心理にまで踏み込む必要がない芝居を打っているというなら、話も分るが、歌舞伎とは違った「近代劇」という路線で行くなら、やはりもう少しの踏み込みが必要だろう。春猿はそこのところが平板で、白糸の矜持、見栄に潜む暗さ―−それは顕れる時には単純な形をとるのだが―−が観客に伝わる演技ができていなかった。「伝法な女芸人」という役柄は演じやすいようでいて、けっこう難しい。しかも途中までは悲劇的な要素はあまり感じられないように演じなくてはならないから、『葛西橋』の突っ張てはいても敗残の匂いのする娼妓とは似ているようでいて、かなり違う。まあ『葛西橋』は三役を演じるので平板になり得ないという恩恵を被っていたのかもしれないが。これまでに六代目歌右衛門、市川翠扇、水谷八重子が演じてきたというこの『滝の白糸』、役柄をどう理解するかがポイントになると思う。私の周りの観客はすでにこの芝居をみたことがあると思われる人が多く、春猿がどう演じるのかといった物珍しさへの興味があったのだろう。だから批評は甘かったのではないだろうか。もちろん歌右衛門バージョンも観てみたいが、なんといってもあの『鹿鳴館』を演じた初代水谷八重子がこの作品をどう解釈していたのかを知りたい。いわゆる新派路線ならセンチメンタルな最後に帰結したであろうけど、八重子なら違った形を提示したかもしれないと、かなわない想像をしてみる。
もう一つの問題は明治中期の雰囲気が出ていなかったことである。その点では先日みた同じく春猿主演の『葛西橋』の方が数等優れていた。芸人の集団を中心に筋が回るいう劇構成のためもあるのだろうが、当時の社会情勢が描ききれていなかった。それも芝居自体が平板になっている原因であろうし、最後の場面が生きてこない原因にもなっていたのではないだろうか。その点も先日南座でみた玉三郎主演の『ふるあめりかに袖はぬらさじ』があまりにも優れていたのと、どうしても比較してしまう。
それにしても、この芝居、いわゆるカタルシスがないんですよね。「えっ?」というような終わり方で、それをなだめるためにもう一つ芝居を付けたのかなんて、勘ぐってしまう。とにかく、こういう芝居をする場合、解釈をし直し、新しい意匠(衣裳)でもって演らないと、現代の観客との齟齬は埋めようがないように思う。
ハイライトの水芸はすてきだったし、他の芸人との「競演」シーンもよかった。また南京寅吉の月乃助はもうけ役。この人、『葛西橋』でもなかなかよかったけど、このお芝居では悪役に徹して、迫力があった。
「麥秋
」
小津安二郎・野田高梧「麥秋」より
脚本・演出
小津安二郎、山田洋次
間宮しげ 水谷八重子
間宮周吉 安井昌二
間宮史子 波乃久里子
間宮康一 田口守
間宮紀子 瀬戸摩純
矢部謙吉 児玉真二
矢部たみ 英太郎
以下筋書から。
奇跡のコラボレーションで東京公演でも大評判を呼んだ作品が、京都初お目見え! 今の時代にこそ必要な、古き良き日本の家族と〈絆〉の物語を、 美しい日本語と細やかな描写で描いた心温まる名作です。
こちらは新派ならではの芝居で、堪能できた。役者はどの人もはまり役で無理がなかった。八重子がこんな老け役をやったのに驚いたが、丁寧に演じていて、円熟味が感じられて秀逸。それは安井昌二も同じだった。それに波乃久里子 が一種の狂言回し役で、すばらしかった。この人が小津の思想に最も近かったように思う。また英太郎、他をよせつけない絶妙の演技だった。
加えて、舞台装置がすごかった。「昭和再現」はみごとに成功していた。この点「昭和」を知り尽くした山田洋次の功績だろう。まさに「昭和」が主人公になっている設定、筋、役柄が全開だった。それが小津の作品とは決定的に違っていた。
これはまさに山田洋次の「麥秋」で、小津のものではない。小津ならこんなにあからさまな「心理描写」はしなかっただろう。また、「戦争反対」などと人物が口にすることはなかっただろう。口にしないのに、その背景の自然風景、風物に、そして人物のさりげないせりふにそれは顕れていた。この劇中でも主人公、紀子の最愛の兄は戦死しているし、それが今の家族に影を落としている。またラジオの「戦死者放送」を熱心に聞くしげの姿にもそれは色濃く出ている。でもそれがあざとい感じが否めなかった。
「失われた美しい時代と人々」もちろんそれ自体も幻想であり、劇作品として構築する場合は虚構化されるわけだが、そこになにがしかのリアリティの重みが出てくる。そういう描き方を小津はしていた。その点、山田のこの脚本はどこか押し付けがましさがあって、それが私のようなひねくれ者には鼻についた。それが端的に出ているのが上記のキャッチフレーズ、「今の時代にこそ必要な、古き良き日本の家族と〈絆〉の物語を、 美しい日本語と細やかな描写で描いた心温まる名作です」である。こんな解説を必要とするようになれば、芝居を観るということがまるで学習を強いられているような、そんな味気なさになってしまう。