yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「マウリッツハイス美術館展:オランダフランドル絵画の至宝」@神戸市立博物館10月19日

展覧会のチラシの画像は以下。

このチラシからもあきらかだけど、展覧会の目玉はフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」。デン・ハーグにあるマウリッツハイス美術館展が現在改装中ということで、かなりの数の美術館所蔵作品が日本にやってきている。これはオランダでも日本人の美術好きが評価されているということだろう。実際日本人は世界でも有数の「美術愛好者」ではある(「クラシック音楽愛好者」でもあるけど)。海外の美術館でアジア人をみればほぼ百パーセント日本人である。中国人や韓国人はめったにお目にかからない。だから日本にやってきた有名美術画の展覧会はものすごい混雑を覚悟しなくてはならない。というわけで、雑踏忌避の私としてはあまり気がすすまなかったのだが、御影の「ふくあかり」さんを訪問したついでに(「花より団子」の私ではありますが)三ノ宮まで足を伸ばした。

フェルメールの「点描法」と「カメラ・オブスキュラ」理論を以前に自分の論文のサポートに使ったことがあるので、フェルメールの作品、特にこの作品はみたいものの一つだった。ひところはこれを鑑賞しにデンハーグまで出かけて行こうなんて考えていたくらいだ。フェルメールの作品のいくつかはアメリカのフリック美術館、メトロポリタン、そしてロンドンのナショナルギャラリー、ウィーンの美術史美術館、さらに日本にやってきたルーブル美術館展でみた。どれもすばらしかったが、なんといってもこの作品は別格である。

手を伸ばせばさわれそうな至近距離でみたこの絵はやっぱりすばらしかった。ターバンの青はカタログ等でみるよりも薄く、少し色あせた感じ。全体に絵筆のタッチが粗い感じ。今までみたフェルメール作品はタッチはかなり細かかったと記憶しているので、そこが違っていた。それにもかかわらず、あるいはそれだからこそ少女の存在感がぐっと鑑賞者の方に迫ってきた。躍動感が溢れていた。その点でも同美術館の他作品とは決定的にちがっていた。他の画家のものはさすがフランドル絵画とおもわせる細密な筆遣いで描かれていたから。唯一例外はレンブラント。この人の作品の画面も粗さと細かさとを上手く使い分けたものだった。

ブリューゲルもハルスもルーベンスもファン・アイクも欧米の美術館で「おなじみ」(?)だったので、懐かしいような変な感じだった。ハルスはフェルメールの「静謐の中の躍動感」とはまったく対極のあくまでもダイナミックなタッチの画家だけど、私はとても好きである。

フランドル派画家たちの風俗画の一点も展示されていた。説明文は「農家のほほえましい団欒」となっていたが、これはあきらかにその団欒の裏にある性の乱れを揶揄した作品である。日本人が解説するとどこか「教育的、訓示的」になるのがおかしい。

私が「真珠の耳飾りの少女」を除いて最も気に入ったのはブリューゲルの「被昇天」とPieter Claeszの以下のドクロの絵である。

まさに「メメント・モリ」、最近はとみにこのことばが近しく感じられる。