yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

池波正太郎の『鬼平犯科帳』

このところ池波正太郎一色という日々を送っている。エッセイ集を何冊か読んだが、『剣客商売』や『鬼平』がまだだったので、一応何冊か図書館から借り出した。欠巻で図書館にないものは買い込んだ。「鬼平」についてはあれほど有名な作品だったのに読んだこともなければ、テレビ放映も観たことがなく、まったくのド素人。「仕掛人」シリーズは何本か観たことがあるけれど、最近まで原作が池波とは知らなかったというありさま。

「鬼平」は文春文庫で現在10巻目を読んでいる。その他の独立本になっているものも別途4冊借りたので、当分は鬼平ワールドにどっぷりというザマが続くだろう。これでも懲りずに、テレビ版の「シリーズ1」も買ってしまった!現在4巻目を観ているところである。中村吉右衛門の「鬼平」、当時人気だったというけれど、たしかによろしい。テレビドラマとしてもかなり秀逸な部類に入ると思うけれど、でもやっぱり原作には届かない。原作の複雑かつ緻密な構成はテレビドラマではかなりシンプリファイする必要があるから。まさに「鬼平」を中心とした宇宙であり、江戸空間を織り込んだ縦糸とそこに生きる人間の関係を成立させ、発展させる時間軸という横糸の絡んだ場でもある。そこを読み解きながら読み進めねばならないのだが、テレビだとどうしても制限がかかってしまう。

でもなんといってもドラマが表現し得ない最たるものは、この小説の行間、つまり空白部分だろう。いったいその欠落部分にどういう小片を埋めればいいのかを読者は常に考えなくては前に進めないという構成になっている。だから面白さも数倍なんだけれど。そういう「芸当」はテレビドラマでは不可能である。欠落部分の説明を視聴者が期待するから。舞台ならその余白をそのままにしておいて、あとは観る側に任せることもできるかもしれない。この作品など、そのどれもがすんなりと舞台化できるに違いない。

池波正太郎という作家、ただただ超人的といしかいいようがない。彼のエッセイによると別段筋のプランをきちんとたててそれに沿って書き進めるというのではないようである。「筆の赴くままに書く」というのだが、ちょっと信じられない。実際に取りかかるまではその期がくるのを待つ、つまりミューズが舞い降りてきてくれるのを待つというのだけれど、その後は一気呵成に書いて行くのだと言明している。編集者などが証言しているところによれば、彼はおよそ髪の毛をかき乱しつつ呻吟し、辺り一面に原稿用紙の山なんていうわれわれが抱いている「作家」のイメージとはほど遠い。書斎は整然としている。こういうところ、三島とも共通したものを感じる。夜中に執筆をしたというのも同じだし、期限を守るというのも同じである。

こんなにどっぷりと鬼平ワールドに浸かってしまうと、そこに生きている人間たちがあまりにも魅力的なので、彼らの息づかいを感じながら自分もそこで同じ空気を吸っているような気がしてくる。小説を読むときにありがちな登場人物に同化するというのではなく、そこで生活を共にしているような、そんな気持ちになるのだ。ホントに不思議。

縦横無尽のそして無尽蔵ともみえるエピソード、それぞれのエピソードの緻密な構成、それがどうやって可能になったのか、どう考えても不思議である。宇宙から舞い降りてきた人としか思えない。写真にのこっているご本人はいたってどこにでもいるような初老の男性で、作家然とはまったくしていない。作家にみられることはほとんどなくて、よく呉服屋に間違えられたそうな。あの植草甚一も池波の大ファンだったようだけれど、植草の方が数等宇宙人ぽい。

江戸の町をここまで丁寧に書き込んだ作家はないのではないか。鬼平を読んでいると、まるで自分が江戸の町にタイムスリップしたような(陳腐な言い草ではあるけれど)、そんな感じがしてしまう。同時に今まではピンとこなかった様々な地名に知悉した気になってしまうから不思議である。彼が親しんだという『江戸名所図会』を手に入れようか、ナンて思っている。こちらは「JapanKnowledge」に登録すれば有料ではあるけれど、オンライン版が入手可能。iPadに入れて持ち歩き、実際の街並と照らし合わしながら町の散策もできるだろう。