yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「韓流ドラマ」放映の終焉

「鈍い日本のTVがやっと重い腰を上げた」というタイトルのブログ記事を読んだ。内容は「どれだけ虚仮にされても儲けのために、日本のB層おばさんたちを韓流ドラマ漬けにしてきた電通やテレビの経営者たちも少しは日本人としての自覚が芽生えてきたのでしょうか、それとも真っ向から吹き付ける轟々たる世間の非難に抗えなくなったのか、ついに韓流一本やりを降ろさざるを得なくなったようで、まことに同慶の至りです」という書き出しに要約されている。まさに、「ご同慶の至り」だ。電通の悪辣さは夙に喧伝されてきたけれど、テレビ朝日をはじめとするテレビ局、そしてNHKまでもがせっせと「韓流」なる低級なテレビドラマを垂れ流していることを苦々しく思ってきたので、「ようやく目がさめたのか」という感慨と、「遅きに失した」という口惜しさとが入り交じった気持ちである。

アメリカの大学で院生をしていた1997年から2004年の間にテレビチャンネルのいくつかでこれらのドラマが流れていた。韓国人の結束の固さに驚いた。その多くに英語訳がついていなかったので内容がまったく分らなかったが、それでも日本ではとっくに廃れてしまったお涙頂戴のメロドラマであることは画面から伝わって来て、なんと安っぽいドラマだと呆れたものである。映画では優れた作品を生み出す監督もちらほらいることを知っていたので、その落差に驚いた。一般大衆のレベルがそれこそB級止りであることの証左だと思った。

帰国してこれらのドラマが日本のご婦人たちに人気があると聞き、心底驚いた。TSUTAYAに行くと何列もがこの手のドラマのDVDに占領されているのをみて、残念というか無念だった。日本人の芸術的感性を高く評価していた私としては「容認」しがたかった。

観客の大半が中高年の女性である大衆演劇の観客層と韓流ドラマの視聴者は階層的に重なっているようでいて、微妙に違っているようである。韓流の方はどちらかというと「劇団四季」や宝塚の観客層とかなり重なっているのではないだろうか。少し「おしゃっれぽい」というか「かっこうをつけたがる」という点で。都会的洗練にあこがれながら、実態がそこまでに達していないという意味で。

「美空ひばり」をリトマス試験紙にすると、そのあたりの区別がはっきりするのではないかと思う。「美空ひばり」は大衆演劇界では圧倒的な重みをもっているけれど、韓流ファンはおそらく毛嫌いするだろう。ダサイ、泥臭いといって。でも韓流ドラマの泥臭さには抵抗がないんですよね。それらのドラマの底流にある、そしてその泥臭さの素でもある韓国人の感性の基調になっている「恨」の精神が共有できるはずもないのに、そこが不思議で仕方なかった。「美空ひばり」の歌の基調にも「虐げられた者」のうめきのような声があるかれど、それが記号的にはきわめて「explicit」に出ているのに対し、韓流の方は(韓国の歌にもそれがいえるけれど)「恨」にいわゆる「イケメン」をつかっての「都会的」覆いをかけることによって、日本の中年女性にもアピールしたのだろう。やすやすとそれに捕まってしまうというのは、あまりにもその感性が「未完成」だということである。

これで、韓流ドラマに「占拠されていた」TSUTAYAで腹立たしく思うことも減るわけで、足が遠のいていたのが頻繁に行くことになるだろう。