yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『曾根崎心中』夏休み文楽特別公演@国立文楽劇場7月29日

毎夏の公演がそうであるように、この公演も三部構成になっている。でも例年と違ったところがあった。それは選択された演目と、その組み方だった。第一部が子供向けのものになっていたのは例年と変わらなかったが、選択された演目が『西遊記』という昭和60年代につくられた「新作狂言」だった点である。もちろん以前にも子供向けに新作が乗ってはいたが、このような歴史物、それもきわめて意欲的なものが選択されたというのが、今までと違っているように思う。まだ観たことのない作品なので、近日中に観に行くつもりである。

第二部の『合邦』と『伊勢音頭』という組み合わせにも度肝を抜かれた。普通はその一つだけを中心にして他の演目を入れるのに、「これはどうだ!」といわんばかりの構成演目の濃さである。どちらも以前に観てはいるが、8月7日の千秋楽までには再度観ておきたい。橋下市長の「予算削減」の対象に文楽がなっているのが残念である。それに対する闘いは舞台でという文楽関係者の意気込みが伝わってくる。

舞台の熱気も、観客の声援もいつもにましてボルテージが高かったのは、こういう危機をひかえて、それを跳ね返すべく舞台・観客が一丸となって燃えていたからだろう。この第三部でもそれを強く感じた。

第三部の『曾根崎心中』は以前に観たときより、ずっとグレードが上がっていたように思う。それは技巧的なことというより、なにか迫力のようなものが加わっていた。それは「鬼気迫る」といっても良いかもしれない。それほどの気迫だった。

徳兵衛とお初の主遣いがそれぞれ勘十郎さんと蓑助さんになるのは第三幕を待ってからだけれど、一幕目、二幕目の主遣い(黒子衣裳だったのでどなたかかは分からない)の人形遣いはすばらしかった。名人の域といっても良いと思う。一体人形の動きをリアルに出すのは、人間が演じるよりはるかに難しいことなのだが、それがなんの苦もないかのごとく、ごく自然体で遣われていた。微妙な首の動き、上半身のポスチャー、すべて完璧だった。おそらく比較的若い方が遣われていたのではないだろうか。どこかに抑えてもあまりある力を感じたから。

以前に観たとき、文楽ではそれほどのインパクトを感じなかった第二幕のお初、徳兵衛の「心中決心」の場で、床下でお初の脚を抱きしめ、心中の決意を伝える徳兵衛のさま、そしてお初のそれへの反応はまことにエロティックだった。先代鴈治郎(現坂田藤十郎)のお初にも負けていないセンシュアル度だった。抑えた表現が成功している点で、鴈治郎のお初を超えたかもしれない。

住大夫さんは休演。でも私の好きな呂勢大夫さんが第三幕の「天神森の段」の主語り手だったのは満足。また第一幕の「生玉社前の段」では文字久大夫さんが三味線に清治さんをしたがえての語りで、これも堪能できた。

以前記事にもしたが、「杉本文楽」の演目も『曾根崎』だった。その折に文楽の人形遣い、そして大夫さんたちはずいぶんと今までとは違った新しい演出に挑戦したのだ。それが実を結んできているのは間違いない。11月はなんと『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言を演るそうである。ここに文楽では今までは感じたことのないなみなみならない意欲、危機感を感じる。それがきっとすばらしい舞台として結実するに違いない。それが市長をも動かして、翻意させると思う。そう信じたい。