オデットとオディールをニーナ・アナニアシヴィリ(Nina Ananiashvili)、王子に マリインスキーバレエ団からデニス・マトヴィエンコ(Denis Matvienko)を迎えての公演だった。
芸文センターが近いという「地の利」を生かして、レニングラード国立バレエ団の来日以来、ほとんどの来日バレエ団のバレエを観てきた。バレエ観劇歴が浅いので、とにかく観れるだけみようというわけである。このバレエ団とくに主役のニーナ・アナニアシヴィリについては「最後の白鳥」というふれこみだったので、期待に胸躍らせて出かけた。3日前は風邪で寝込んでいて、今日もまだ体調は万全ではなかったけど、せっかくとったS席、無駄にはできない。
でも期待値があまりにも高かった所為だろうか、いささかがっかりした。ニーナは、たしかにすばらしいテクニックを駆使していた。でも最初のうちは動きに切れがなかった。終盤にさしかかってくると波に乗って、ソロでも、デニス・マトヴィエンコとのデュエットでも「さすが!」のレベルだった。高い技巧は嫌がうえにも観る者を納得させるだけの迫力があった。
でも、でも、なのである。技巧はたしかに(私の数少ないバレエ観劇歴の中であえていうとして)群を抜いていた。でも優美さがなかった。「優美さ」(Gracefulness)は、バレエ芸術の特殊性をもっともよく示すものだと思う。とくに、オデットはその権化(epitome)なのだ。身体そのものがもつ美しさに加えて、踊り手の内面のある種の超俗的ピュアさが高い技巧によって身体表現という発露になる。そこにオデット、白鳥』の醍醐味があるのだし、「優美さ」が生まれるのだと思う。『白鳥』のようなクラシックバレエの特徴は、まさにそれではないだろうか。
さきほどWikiで確認したところ、ニーナはもうすぐ50歳だという。ウェスト回りと背中がいささか肉厚だったのは仕方ないのかもしれない。実生活では妻やら母やらをやっている彼女に「超俗性」を求めるのも酷だろう。もしこのバレエ団に彼女に匹敵する踊り手が育っていれば、芸術監督でもある彼女はその若手を起用しただろう。でも今日の公演からみるかぎり、彼女級の若手はいなかった。それは男性の踊り手にもいえる。わざわざマリインスキーバレエ団からデニス・マトヴィエンコを相手役に招いたのも、自身のバレエ団にそれ級の踊り手がいなかった所為だろう。
デニス・マトヴィエンコは申し分のない踊り手だった。力強く、切れもよかった。とくに跳躍がすばらしかった!先日シュツットガルトバレエ団の『白鳥』をみたが、そのときの王子役の踊り手より、陰影があり(おそらく年齢が上とういこともあって)、もっと観たいと思わされた。
群舞については人数は十分満たしていたが、残念ながら実力が伴っていなかった。とくに白鳥の群舞ではそのアラが目立った。足だけではなく、腕のあげ方もそろっていなくて、なんども「?」と首を傾げた。きれいな方が多く、また肉体的にも美しい人ばかりだったので、かなり残念だった。のシュツットガルトバレエ団の『白鳥』の方が、群舞は比較にならないほどきれいだった。
それとせっかくのこのすばらしいホールを生かしきれていないとおもったのが、照明である。舞台全面を明るくしてのデュエットはなんとももったいなかった。もっと照明に工夫を凝らせば、舞台に奥行きが出て、このおとぎ話のすばらしさが観客に直に響いたと思う。大道具も然り。クラシックバレエの特徴を出すのだったら、ここは思いっきり凝るべきだろう。
また、第一幕目の冒頭で「劇中劇」風にする工夫もみられたが、これはあまり功を奏していなかった。いっそのことない方がすっきりする。クラッシックバレエの「古めかしさ」にどこまでも淫した方が成功すると思う。
芸術監督として、このバレエ団をここまで育て上げてきたのは彼女の大きな功績に違いない。ボリショイバレエで培った経験をすべて投じて孤軍奮闘してきたに違いない。少ない予算でやりくりは大変だったようである。先ほどの照明、大道具、舞台装置などが今ひとつなのはそこに原因があるのかもしれない。でもこのバレエ団を世界の一流に伍するようにするには、彼女一人のがんばりには限界があるだろう。強力な跡継ぎ、あるいはパートナーが必要だと思う。