yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

夢枕

今朝、去年の12月に亡くなった友人が夢に出てきた。いつもの感じで話していて、途中で、「えっ、あなた亡くなっていたんだっけ」と半信半疑で言った。「そんなはずないじゃない」と応えたので、彼女の勤務先のホームページをみせて、「ほら」と言ったところで目が醒めた。そのふだん通りの会話があまりにもリアルで、彼女の声もその小さな笑い声も、その表情もそっくりそのままだったので、目がさめてからもしばらく現実に戻れなかった。「やっぱり亡くなっていたんだ」と分ると、何とも形容し難い喪失感でしばらく虚脱状態だった。今まで亡くなった人が私の夢枕に立ったり、会話したりすることはなかったので、私の潜在意識の中で彼女がどれほど大事な人だったのかと、改めて思い知らされた。

彼女との出会いはアメリカの著名な批評家を招いての1週間に渡る若手研究者のワークショップでだった。彼女は四国の大学に勤務、私は大学の非常勤講師をしていた。なぜか気があって、学会とかで彼女がこちらに来たときには必ず会っていた。その後、彼女が東京の大学に移ってからも1年のうち何回かは会っていたし、長電話もよくしていた。

それなのに、ここ数年はあまり行き来がなく、彼女の死を知ったのは3月も終わりになってから、それも「彼女の名を冠した基金ができた」という彼女の勤務先の大学のホームページ記事だった。そのときの衝撃は強烈だった。「そんなはずはない、そんなことがあるわけがない」と呟きながら、しばらく部屋の中をうろうろと歩き回った。あまりにも若い死。未だに納得がゆかない。フェアではない。信じたくない。というか、信じていない。

2006年1月にジェンダー論、哲学で世界的に著名なB教授がアメリカから来日し(彼女はあまりにも有名なその著書の日本語訳をしていた)、その折に歌舞伎座でそのB教授に歌舞伎を「解説」してくれと彼女にいわれて歌舞伎を一緒にみた。その夜は彼女のマンションに泊まったのだけれど、彼女は一晩中翌日のB教授の講演会の司会、その他の資料作成で徹夜だったので、あまり話もできなかった。でも1時間ほどはいつもながらにぺちゃくちゃとおしゃべりをした。翌朝、彼女はその講演会に出かけ、私はそのまま帰阪したので、そのおしゃべりが彼女との会話の最後になってしまった。そのときも、私はホテルをとるつもりが、彼女が是非にと勧めてくれたので彼女のところに泊まったのだが、今思えばなにか「思い出作り」をしてくれたのではないかと思える。そう思いたい。

彼女が四国の大学から東京の大学に移ってから、その最初の大学のときも、次の大学のときも何回か泊まった。でも今回の最後の大学のときのことがやはり鮮明に思いだされる。夜中にトイレに起きたとき、隣りの部屋でもうもうとタバコの煙に包まれて、まるで憑かれたように翌日の講演の準備をしていた。それはとても痛々しく、今思いだしても胸が苦しくなる。「あまりタバコ吸っちゃダメだよ」といった覚えがある。そのときは彼女が講演会のため早く出たので、私は鍵を郵便受けに残して帰った。

そのあと、彼女はそのB教授の大学に2008年から2009年にかけて1年間在外研究で出かけ、私は私で自分の勤務先でのプロジェクトが忙しく、結局会わずじまいだった。アメリカからメールを数通もらっていたけど、返事を出したかどうか、覚えていない。私の父がそして次に母が亡くなって、年賀状失礼の連絡をしたとき、丁寧なメール、そして電話をもらった。その電話での会話がたしか2010年のこと。今思うと、その折にはすでに癌が分っていたのだ。おくびにも出さなかったので、まったく想像だにできなかった。私は普段は自宅の電話の音を切っているので、そのときもたまたま気がついて出たので話ができたけれど、彼女に携帯の番号を伝えておくべきだったと後悔している。

後悔することはいっぱいある。なぜ知らせてくれなかったのという思いもある。でも、癌との闘病をみせたくなかったのかもしれないとも思う。

彼女の死を知ったとき、すでに翌月の4月に新橋演舞場に『仮名手本忠臣蔵』を観に行く予定を入れていた。昼公演を端折って、彼女が最後に暮らしたマンション、彼女の勤務先からそう遠くはない住宅街にあるマンション、そして私が泊めてもらったマンションに出かけて、外からお別れをしてきた。彼女は独り身で、最愛のお母さまは2000年だったかに交通事故で亡くなっている。そのとき、私はアメリカの大学院にいたので、大分後になってそれを知った。また彼女にとっては「母」代わりのお祖母さまも15年ほど前に亡くなっている。きっとそのお二人が寂しいといって、彼女を呼び寄せたのだろう。

それにしても、やっぱり承服できない。彼女が勤務した最後の大学ではさまざまな女性学関連のプロジェクトが進行していて、彼女はその中心を担わされていた。なみはずれて優秀なひとだったから。過労だったに違いない。私が今までに出逢った中で、もっとも頭の良い、そして感受性の鋭いひとだった。惜しい。あまりにも若い死。私自身が何か生きる気力をなくしてしまいそうな、いつ死んでもいいような、そんな気分になってしまう。また夢枕に立ってくれないかと願う。今度はもっと長く話したい。