yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

吉本隆明著『源氏物語論』洋泉社

たまたま立ち寄った書店に吉本隆明コーナーが設置されていて、最近鬼籍に入ったことにようやく思い至った。以前読んだのは初期の作品、『共同幻想論』、『言語にとって美とはなにか』、『初期歌謡論』程度で、その硬質な論はどこか近寄り難く、敬遠してきた。「筋金入りのマルキスト」というイメージも、なぜか彼の著書を疎遠なものとして感じさせた。とはいうものの、彼の本は文学をやるものにとって必読の書であることには変わりなく、いつか詰めて読みたいとは思っていたが、ある種の思い込みがあったせいで、なかなか手にとるところにまで至らなかった。

この本も1982年に同タイトルで発表されたものが後に加筆され、再々出版されたものである。彼が60代にさしかかったころに初版が出たことになる。Wikiでみると、他のいわゆる文藝評論家の比ではない著書の数々がリストアップされている。政治思想と文学との関わりを追求していた初期に比べると、80年代頃からサブカルチャーなどのいわば文藝批評の「正統」からみると亜流、もしくは「ゲテモノ」的な分野にまでその守備範囲が広がっていたことが分る。驚くほど多岐にわたって、彼の関心が広がっていたのだ。従来ながらの政治と文学との関係を論じたものももちろん多いが、それ以外に仏教、そして日本古典を論じたものが増えている。彼がもともと詩人であったということと、それは深く関わっているような気がする。

見逃せないのは、著書リストと活動履歴からよみとれる彼の誠実さ、そしてその文明批評の的確さである。極度な「エセ・ヒューマニズム」を極力排して来たことがよく分かる。その事実に改めて驚いている。私自身の彼の理解の足らなさ、あまりの無知に恥じ入っているところである。

書棚に並べられた彼の著書の一群をみたとき、真っ先に目に飛び込んで来たのがこの『源氏物語論』だった。買ったのは昨日で、今日読み終わった。イキもつかせない面白さだった。それは日本文学者の藤井貞和が「あとがき」で絶賛している通りである。今までに出ている「源氏物語」を論じたもののなかでは一番だと思う。日本文学、国文学では源氏の研究者が最も「位が高い」なんてことを聞いたことがある。「英文学研究におけるシェイクスピア学者のようなものなのか」なんて考えていた。吉本の「源氏論」はそういうもろもろの学者、研究者の研究をはるかに超えた時空に達している。彼が詩人であり、そしていわゆるプロパーでなかったおかげで、これだけのものが書けたのかもしれない。

今まで目にした研究書を凌ぐその構成の緻密さと濃厚さ。読み手を取り込んではなさないその優れた表現力。行間から伝わる猛烈なエネルギー。源氏の著者、紫式部の意識の深層にまで迫らざるをえないという強い意思、そういったものが読者を圧倒する。何度も何度も加筆され、編集されたものだそうだが、その痕跡はあちらこちらにくっきりと残されている。

白眉は文学論であると同時に文化論、政治論になっているところである。これはいかにも吉本隆明らしい。でも彼が最も力を入れたのはおそらく情念の発露である「「物の怪」を軸にした此岸と彼岸との関係だったような気がする。それは「妻問い婚」という当時の制度から生じた必然的事象であり、それを女性の視点からえぐりとるように描くことが、紫式部がとらざるを得ない姿勢だったと彼はみている。そしてその物の怪を代表するのが六条御息所であるという。六条が彼岸の代表者だとすれば、この世にあっては藤壷の君が「母子相姦的愛恋」を表象しているのだと、吉本はいう。

とくに印象にのこったのは、以下の箇所。

源氏物語の愛恋の世界を、とりわけ主人公の光源氏を、昼明りの世界で無意識に統御しているのが藤壷の姿であるとすれば、夜の幽明の世界で無意識を統御しているのは六条御息所の物の怪だといえる。源氏の愛恋がおもむくところでは、藤壷の面影と六条御息所の物の怪とがついてまわって離れることはない。このふたつは作品の語り手の言葉に登場しないときですら、視えない気配として源氏の愛恋にたえずつきまとって無意識の底を規定し、ときに噴出するといっていい。そして藤壷も六条御息所も神権的な君主である天皇の女御、思い人であり、源氏は臣籍にありながらその女君たちにたいして密通者の位置に置かれている。ここには作者の意識された、あるいは無意識の深い洞察がかくされているとおもえる。すくなくともこの作品に描かれた世界の機構は、作者によって直覚的に見破られている。光源氏の藤壷や六条御息所への懸想は母型をもとめる近親相姦の願望に根ざしている。だが世界の方からみれば、最高の権威者が囲い込んだ女人にたいして、禁忌を侵犯することを意味している。この幼児的な憧憬が同時に、世界の最高の神聖さの侵犯にほかならないというのは、この『物語』の世界の本質的な構造にあたっていた。

物の怪に深層心理をみるところは、そのまま三島由紀夫を想起させる。そして制度への侵犯をそれに重ねるところは、私の知る限り他のいわゆる源氏プロパ—が立ち入らなかった領域になっている。