yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

翫雀と秀太郎コンビがしんみりさせる『傾城反魂香』in 壽初春大歌舞伎@松竹座1月8日

『傾城反魂香』は近松門左衛門作で、今回は「土佐将監閑居の場」(いわゆる「吃又」)の上演だった。土佐又平を翫雀、女房おとくを秀太郎、土佐将監を市蔵、その妻を家橘、修理之助を笑也という配役で、海老蔵は狩野雅楽之助役でほんの少しだけの出番だった。  

これは松嶋屋のお家芸、「片岡十二集」のひとつだけあって、秀太郎のおとくは出色だった。特に、「手も二本、指も十本ありながら」で始まる口説きは、夫思いの深い情愛をこめたもので、泣かせる。秀太郎はあまりにも上手すぎて、ときどきちょっと「くどい」と思うときもあるのだが、この女房は抑制がよく効いていて、はまり役だった。

また翫雀の吃又も秀太郎との呼吸はこれ以上ないほどぴったり合っていた。吃る箇所は、ちょっと「?」というところがあったものの、秀太郎との掛け合いは漫才を聞いているようで、ほのぼのとした夫婦愛が滲み出ていた。「吃又」の醍醐味、ほろっとさせたり笑わせたりで、観客を十二分に楽しませてくれた。

近松の演目は上方弁のものが多いが、この二人だと安心して観ていられる。ずっと前に東京の役者さんで「吃又」をみたことがあるが、それよりも良かった。丸本歌舞伎なので、上手の床に義太夫語りの太夫と三味線弾きがいて、その語りに合わせて劇が進行する。これにあわせるのがけっこう難しく、息づかいができていないと、演技、せりふが浮いてしまい、ぶちこわしになる。義太夫の語りの音程は上方弁の節回しなので、それに合わせなくてはならない役者は上方育ちが断然有利ということになる。土佐将監の市蔵も東京生まれではあっても松嶋屋なので、このあたりの呼吸も決まっていた。

このいささか「泥臭い」気味のある上方勢、特に又平に対比する形で、修理之助の「スマートさ」、優等生ぶりが際立たせられているのだが、その役柄を笑也が好演していた。若手の多い澤瀉屋の中ではそれほど若いわけではない笑也だけれど、ベテランの中ではその「若さ」が際立つ。そういう風に演じてみせるのも、彼の腕が良かったからである。

「義太夫狂言」の近松らしさが全編にみなぎっていて、見応えのある「吃又」になっていた。