一昨年は南座で12月の顔見世興行をみたのだが、去年は止した。というのも演目もさることながら、役者の顔ぶれもまったく意外性のないものだったから。以下産經新聞の記事からの紹介である。
昼の部(午前10時半開演)は、片岡孝太郎、片岡愛之助ら上方系の花形による「寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)」で幕開け。三津五郎、中村翫雀(かんじゃく)の「お江戸みやげ」のあと、藤十郎の「隅田川」、仁左衛門、菊五郎、時蔵の顔合わせによる「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」。
夜の部(午後4時15分)は、片岡我當、片岡秀太郎で「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」、菊五郎、市川左團次らによる義太夫狂言の傑作「実盛物語」、仁左衛門、三津五郎らの「元禄忠臣蔵・仙石屋敷」、三津五郎の舞踊「喜撰」、翫雀、愛之助の「らくだ」を上演する。
もちろん上方の私としては上方役者をそろえるのはけっこうな話だとは思うのだが、いつもの面々で演じるとなると、あえてみる価値があるのか、というよりみて楽しいのかどうかと考えてしまう。菊五郎、時蔵は最近は上方に参加することが多くなっていて、これは良い点の一つ。でも唯一みたかったのは舞踊の名手、三津五郎の舞踊だけだった。
若手をもっと出して欲しい。歌舞伎を見る観客層に若い人が増えているけれど、関西では東京ほどの動員数ではないように思う。上方役者にしか出せない味があり、それはやはり手練の年配役者に軍杯があがるのかもしれない。でも、でもである。多少技量には問題があっても、もっと若手を出して欲しい。パワフルな舞台がみてみたい。なぜ南座、松竹座での公演には圧倒的に熟練役者が多いんだろう。こういうところやっぱり東京中心といった現象が起きているのだろうか。
この『雷神不動北山櫻』はそれを覆してくれた。もちろん市川宗家の演目なので主演は海老蔵。その他の中心メンバーといえば、成駒屋からは翫雀、扇雀、澤瀉屋からは右近、笑也、門之助、そして美吉屋の吉弥というところであり、あとのほとんどの登場人物は若手だった。登場人物が多いのでそうなったのだろうが、それが結果的に舞台を明るく、活気あるものにしていた。こういう舞台は初めてだった。海老蔵は去年の『若き日の信長』でかなりがっかりしたのだけれど、今回の演目では、その折に感じた彼の「欠点」が逆に面白く感じられた。それは周りが若手だったせいだと思う。上のメンバーにはいわゆる大御所が入っていないでしょう。海老蔵は肩の力を抜いて小気味よいくらいのびのびと演じていたし、共演者もそういう彼をもり立て、サポートしていたので、見応えのある、そして何よりも楽しい舞台となっていた。
それにしても海老蔵、似ていないと思っていたお父様の團十郎丈によく似てきた。とくに声、発声の仕方。この点は私はあまり好きではないのだけれど。「千恵蔵日記」というブログで最近の海老蔵の弁慶をクリティカルに批評しているのを読んで、かなりその通りだとは思うが、でもそれも周りとのイントラアクティブなものという面もあると思う。海老蔵という役者、他と化学反応をすることによって、とてつもないエネルギーを出す怪物的側面をもっているのではないか。その非凡さゆえに、また自身でそれに気づきつつも持て余しているがために、なかなか周囲とは、とくに大御所的な役者たちとは齟齬が起きてしまうのではないだろうか。だから「肚が座っていない」、「型がのみこめていない」と批判されるのだと思う。『若き日の信長』では完全に「浮いていた」その演技も、それを活かせる場に入れられると、精彩を放つのだ。なによりも容姿が群を抜いている。声ももう少し発声を工夫する余地はあるだろうけど、でも歌舞伎役者として上々である。彼が舞台に登場するだけで辺りを圧する力強いオーラがある。舞台途中でちょっとアドリブっぽい台詞を入れたり、客席に降りるという様子をしてみせるというのも、よかった。こういうところ、若手ばかりでやった方がやりやすいに違いない。
「毛抜き」、「鳴神」を通し狂言として初めてみた。そうか、こういう流れの中に位置していたのかと納得した。それにしても解説をざっと読んだくらいではすぐに頭に入ってこないほどの複雑な筋である。これを通しで数時間で演るというのは、とてつもない冒険ではある。それに挑戦したところを高く評価したい。だから、もっと思い切った演出(例えばスーパー歌舞伎のような)をしたり、照明を工夫すればグレードアップすると思う。特に大詰の「朱雀門王子最期の場 」、そして最後の「不動明王降臨の場」。伝統歌舞伎の枠を破ることになり、実現するのはかなり抵抗があるだろうけれど、でもドラマとして盛り上がるし、スペクタル度が上がってはるかにワクワクする舞台になること間違いなし。こういうのも若手しかできないだろう。観客も若い人たちが押しかけることまちがいなし。昨日の2、3階の観客席、若い人が少なかった。