yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「“日本画”を超えて 天才画家 杉山寧の世界」、NHK日曜美術館

杉山寧の名は知ってはいたけれど、それは「三島由紀夫の妻、瑤子の父の高名な画家」としてだけだった。恥ずかしい話、日本画家だったのもこの番組で初めて知った。それも日本画の画壇に革命を起こした天才だったことも知らなかった。三島という天才と結婚した瑤子が同じく天才の芸術家を父にもっていたその重さを、改めて思った。彼女は1995年に58歳という若さで亡くなったのだが、その「夭逝」も二人の天才に挟まれてしまったことから来ていたのかもしれない。父の死後わずか2年後のことである。

杉山寧(1909ー1993)の描いた日本画とは到底思えないような重厚な作品群が番組で紹介されていた。今までに日本画をみたのは小倉遊亀、上村松園、上村松篁ぐらいで、ほとんど知らなかった。この三人の作品はそれぞれを特集した作品展でみたのだが、主として「花鳥風月」、そして「美人」を描いた正統派のものだった。小倉遊亀は滋賀県立近代美術館に常設展示されていたので、かなりみた。上村母子の作品もいくつかの展覧会でみた。でもどれもあまりぴんとこなかった。「綺麗」なだけで、心に響くものがないような気がした。なによりもダイナミズムが感じられなかった。

だから、今日この番組で紹介された杉山の作品は衝撃的だった。特に司会の千住明さんが兄の日本画家、博さんとともに最初に紹介した「穹」(1964年)は圧巻だった。スフィンクスを描いたものなのだが、神秘的でいて圧倒的存在感があった。静謐のなかにこちらへ押し寄せてくるようなダイナミズムがあった。以下NHKのサイトからの画像(「穹」の前に立つ千住兄弟)である。

実際にテレビ画面に映し出されたものはこれよりも立体的で迫力があった。それを博さんは、シンセサイザーの音楽と形容した。この「穹」と合わせて、杉山寧には一連の「エジプトもの」があるということで、その一部も紹介されたが、どれもが「穹」と共通した静謐とダイナミズムのみごとなアマルガムだった。

先ほど挙げた番組サイトの杉山寧紹介文には、「的確な描写力をベースに、斬新な構図、重厚な質感と明朗な色彩で、気品ある画面空間を獲得」とあったが、構図と質感は今までの日本画にはなかった境地を拓いたのだと思う。また、岩絵具の斬新な使い方を編み出したのも杉山だったということだった。

杉山は「『絵画は決して実在するものの再表現ではない。実在するもの以上の生命感をもって訴えかけるものを創作できなかったら、描く行為の意味は空しい』と語った」と紹介されていたが、彼が目指したのは実在するものの写生ではなく、つまり写実ではなく、それを実在を超えた存在感だのに違いない。ここに、生涯到達できない絶対を求め続けた三島由紀夫との共通点をみてしまうのは、私だけだろうか。

番組最後に紹介されていたのは、死の前年に展覧会に出品した自作の絵を、気にいらないともう一度手許に戻して加筆する杉山の姿だった。死の直前まで絶対に迫ろうとした姿はどこか鬼気迫るものがあった。