中学校の修学旅行でこの二つの名所は巡ったことがあり、写真も残っている。とはいえはるか昔のことなので、今回現地での印象とはかなり差があった。熊本城がここまで市の中心であるとは、以前にはまったく気づかなかった。城を中心に街全体が回っているような感じを持った。なんといってもイヤが上でもいつも目につくところにその偉容がそびえ立っているのだもの、当然日々の生活もなにがしかの影響を受けるのではないだろうか。実際のところどうなんでしょう、熊本市の方々。
来年4月から政令指定都市になるとのことで、市役所前には「祝」とかかれた垂れ幕が誇らしげに掲げられていた。人口がほぼ同じの浜松市(80万人)よりも熊本市は少し少ない73万人。でも繁華街をみる限り、浜松よりもにぎやかな感じがした。その繁華街からもお城は見えるわけで、そういう城をもつ誇りのようなものがいやでも養成されるているのではと、街行く人の顔を見てしまった。
今までにみた数少ない日本の城の中でいちばん立派だった。そしてそのスパルタンな佇まいが美しかった。雨で写真がうまく撮れなくて、ほんの少しだけではあるが、以下が天守閣とその隣りの小天守閣の写真である。
雨でなければもっとゆっくりと回って堪能できたのにと残念である。途中ざざ降りになってきたので、携帯用の小さな傘ではうまく雨を避けられず、足下もぬかるみの中を歩く羽目になり、さんざんだった。
それでも城の歴史を放映する15分のビデオはしっかりと見てきた。古くは中世にまで遡るこのお城。持ち主はつぎつぎと変わった。天守と城郭を完成させたのは、徳川家康から東軍に味方したことで、城と領地を報償としてもらった(あの虎退治で有名な)加藤清正である。しかし清正一族が失脚、かわりに領地を譲られた細川家が後を継ぐ。細川一族も城に改築、増築を加えて現在の形にしたのだという。戦国のみならず太平の江戸期にも大名たちと将軍家の間のかけひきが続いていたのを知った。
水前寺公園(正式には水前寺成趣園)は細川 忠興と細川ガラシャの息子、忠利が開いたもの。Wikiでは、「桃山式回遊庭園で、築山や浮石、芝生、松などの植木で東海道五十三次の景勝を模したといわれる」と解説されている。ここでは雨の降りが少しおさまっていたので、写真もゆっくり撮れた。ここは以下何枚かを載せるが、遠くに街のビルが見えるのが少し興ざめだった。でも公園の造りそのものは昔の記憶通りで美しく、細川一族の趣味の高さを窺わせるものだった。
ガラシャも祀られている出水神社
木立の間にみえる能楽堂
(桂離宮を開いた)八条宮智仁親王に細川幽斎が『古今和歌集』の奥義を伝授したという「古今伝授の間」
桂離宮の回遊式という構造が、この庭園のそれを反映させたものであることが納得できた。