古書店に頼んでいた本が先ほど届いた。以下である。
11月4日に八千代座に玉三郎の舞踊公演を観に行くので、その下準備もかねて買い求めたのだ。先日のこのブログの記事にも書いた通り、永石秀彦さんの写真集『八千代座」(海鳥社、2001年)も先日別の古書店から送ってもらっている。
永石さんの写真集の方はタイトル通り写真を集めたものであるが、こちらは萩原朔美さんをはじめとして何人かの関係者が文章を書いていて、以下のような構成になっている。
第一幕
萩原朔美 「八千代座観劇記」
大笹吉雄 「八千代座と玉三郎」
福原昌明 「八千代座にみる建築史」
第二幕 「文化のシンボルとして甦った劇場と町」
「八千代座のある町『山鹿』を行く」
「八千代座蔵グラフィティー」
「八千代座今昔物語」
「八千代座復興への道のり」
「八千代座には玉三郎がよく似合う」
巻末 資料
「劇場とあゆみ」
「山鹿の歴史:豊前街道に沿った町部の沿革」
巻末資料の「八千代座年表」をみると、明治43年(1910年)に山鹿実業会が八千代座組合を編成、八千代座を設立したという。こけらおとしは松嶋屋の歌舞伎公演だった。その後、少女歌舞伎、松井須磨子、島村抱月の公演、天勝の公演などがあったが、経営不振で昭和45年に閉鎖された。その後復興の兆しがあり、昭和49年には映画、『これがドサだ』のロケが行われたりした。1980年には八千代座組合が山鹿市に建物を寄贈。そして昭和61年に八千代座復興期成会が発足し、本格的な改修工事に着手した。平成2年には第一回玉三郎公演が行われて、現在に至っている。
江戸から明治へと引き継がれれた芝居小屋がつぎつぎに取り壊されたり、映画館等に変わって行く中で、八千代座はいき延び、新しい姿となって甦ったわけである。
私がもっとも惹かれたのは萩原朔美さんによる「八千代座観劇記」だった。「場内に入ると、そこにはもう江戸から明治へと引きつがれた芝居小屋の華やかな喧噪が出現していた。自然に顔がゆるんでくるのが分かる。いよいよ玉三郎と出逢えるのだ」という文には彼が玉三郎公演に参加し、観客とともにそこに身をおいたときの興奮が生々しく描写されている。存亡の危機に瀕していた八千代座の再興運動に加速がついたのは玉三郎公演に負うところが大きいという。
八千代座を視察にきた玉三郎が条件の決して良くないこの劇場でなぜ舞踊公演をしようと考えたのかを朔美さんは以下のように推察する。
しかし、なによりも、玉三郎という人の演出家的な視点、外側から眺める小屋と演者との関係を分析する力が根底にあったからではないかと思う。台本や演目よりも、まずどこで上演するのか。円形舞台かプロセニアムか、あるいは廃墟か野外劇場か、風呂屋、ビルの屋上なのか、それぞれの空間の特性を発想の原点とする演出家がいる。玉三郎には、そういった演出家的視点があるのではないかと思う。この大劇場ではない、江戸の薫りがする劇場で、なにが可能か。背景と今の自分の芸との対立と融合。その関係を、八千代座で試みようとしたのではないか。
この発想は自らも演出家である朔美さんならではのものである。Wikiによれば天井桟敷の創立メンバーの一人であり、長く寺山と行動をともにし、退団後はなんと三島の「葵上」「弱法師」も演出家として手がけている。彼の演出した舞台は残念ながらみたことがないが、萩原朔太郎のお孫さんであり、詩人のお母様をもっておられるのだから、才能あふれる人に違いない。寺山はさておき、三島の『近代能楽集』を演出するなんてことも、才能がなければ作品に負けてしまうから。
玉三郎が舞踊家というより、演出家としてこの芝居小屋をみているという指摘は正鵠を射ている。玉三郎も三島の所縁の人であり、演出法が芝居であれ舞踊であれ最重要であることを認識していたに違いないから。
演出家を惹きつけてやまない芝居小屋、それをもうすぐ自分の目で確かめることができるという「幸運」に感謝している。