yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

"How to Disappear Completely and Never be Found" @ The Adrienne Theatre, Philadelphia 9月2日

今日はLord of the Flies を観に行く予定を変更、こちらの芝居に行ってきた。“Luna Theater Company” という劇団のプロダクション、The Adrienne Theaterという小さな劇場(フリンジ)での上演で比較的近場だった。タイトルとそれに付いていたシノプシスがおもしろかった。タイトルは ”How to Disappear Completely and Never be Found” (完璧に姿をくらまし、見つからないようにするには)というのである。以下が解説。

When a young executive reaches his breaking point and decides to disappear, he enlists the skill of a master of the craft and begins to erase himself from society. Obsessed with apparitional visions of a mysterious young woman, he takes a nightmarish journey through what may be the final hours of his life and asks the hard question: If we erase the records of who we are, what becomes of us when we’re gone?
In the celebrated tradition of Camus and Kafka, How to Disappear Completely and Never Be Found is a daring and adventurous new play that chronicles one man’s desperate struggle to escape the system, and provokes lingering questions about the high costs of living within the modern world.

29歳の主人公チャーリーを演じるのは若い男優、彼の上司、義理の父、その他知り合いになる年長の男たちを一人で何役も演じるのが中年男優、彼のガールフレンド、女性同僚、叔母、その他の女性をこれまた何役も演じるのが若い女優、彼の同僚、牧師、医師等を演じるのが若い黒人男優、そしてクリニックの女性医師を演じるのが若い女性という配役だった。

解説にもあるように、すべて効率によって支配された現代のフーチャリスティックな体制の中で閉塞感を強く感じていた若いエリートビジネスマン、チャーリー。私生活でも唯一の近しい肉親だった母親が亡くなり、ガールフレンドとも巧くいっていなくて、一旦自分の生活をご破算にしたいと考えるようになる。「悪魔のささやき」をしたのは母と同居していた男で、彼にまとまった金の入った財布を渡して、自由になれと勧める。パスポート等にあるアイデンティティを別のものにするのは比較的簡単だったのだが、そのあと問題が次々と起きる。もっとも深刻だったのは彼が部屋を借りようとしたとき、保証金が十分にあることをみせようとして家主に渡した財布にドラッグが入っていたことだった。クリニックに収容され、あげくの果てに狂人あつかいされてしまう。義理の父とかれの一味の計略だったのかもしれない。時既に遅し。かれはこの世から「葬りさられる」ことになる(という暗示になっていた)。夢の中でのことだったのか、現実だったのかは、最後まで明かされないままに終わる。

舞台の始まりはクリニック、また最後もクリニックで終わるという設定だった。おそらくは精神分析学的、フロイト的解釈を呼び込むための設定だったと思われる。その上、女性の医師との問答はもちろんのこと、他の人物たちとの会話も精神分析治療のそれを連想させるものだった。どれもがかなり息苦しくなるもので、これを聞くのはきつかった!

解説ではカフカ、カミュを引き合いにだしているが、私はむしろ三島由紀夫の芝居、たとえば『近代能楽集』中の『葵の上』を思い出してしまった。主人公光と看護婦の会話なんて、まさにこの芝居とかぶってくる。また、夢の中で別人になるというのは、同じく『近代能楽集』の『邯鄲』そのものではないか。もちろん「邯鄲」そのものは唐時代の小説でそれが日本に入って能楽になったのだが、この主人公の次郎(廬生)はまさにチャールスでないか。

原作者のFin Kennedyはどこかで『近代能楽集』を読んだのではないだろうか。彼の生い立ちを記したサイトを覗いてみたが、それらしい記載はなかった。

知的なゲームのような芝居をここ暫く観ていないので、刺激になった。観客数は50人程度、年齢層は20代から60代くらいまでで、一目で知的な階層と分かる。雰囲気からおそらくユダヤ系の人が多かったと思われる。白人ばかりで、アジア系は私一人だった。