yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

ジョゼフ・ヴォーゲル著 『Earth Song: マイケル・ジャクソンの最高傑作の内実』

原題は以下である。

Earth Song: Inside Michael Jackson's Magnum Opus [Kindle Edition] by Joseph Vogel

タイトルにもあるように、"Earth Song"成立の背景を描いているのだが、それ以上にマイケル・ジャクソンの芸術家/福音家(エヴァンジェリスト)としての側面を描くのにも成功している。まだ環境問題がそれほど認知されていないときから、マイケルが自然破壊の深刻さを嘆いていたというのがこの本の背骨になっている。

Kindle での注文だったので即座にダウンロード、読むことができた。通勤の電車内で読んだのだが、3日で読み終えた。とてもコンパクトにまとまった評論になっていた。それでいて肝心なところはきちんと押さえてあった。とくに、マイケルの音楽の本質を的確につかみ、それを美しい詩のような文にしたためたというのはいわゆる「伝記本」とは一線を画している。

著者(ジョゼフ・ヴォーゲル)は文学・芸術関係の批評家だろうと推測して、Wikiで検索したところ、1981年生まれの音楽批評家[music critic ]と出てきた。現在、ロチェスター大学のPh.D.(博士号)候補者[doctoral candidate]である。アメリカの場合、文系の批評家は文学、歴史、芸術に造詣が深く、また深くなければ通人を納得させるだけの批評文は書けない。

マイケルの音楽の高い精神性を表現するにはそれだけの知的な背景が必要である。まず、彼はマイケルを単なるエンターテイナーとしてではなく、芸術家として捉えている。詩人でならばウィリアム・ブレイク、T.S. エリオット、イェイツ、ワーズワース に、画家ではピカソ、ミケランジェロ、そして音楽家ではベートーベン に擬える。確かに、ブレイクにしてもT.S. エリオットにしても詩に新しい地平を拓けたという点ではマイケルと共通している。ピカソ、ミケランジェロもしかり。マイケル自身も文学、歴史の本を好んで読んだという。またクラシック音楽ではドビュッシーが好きだと話していたという。詩情をたくみに「音楽化」するという点で、ドビュッシーとマイケルは案外近い音楽性を共有しているのかもしれない。また、「現代音楽への掛け橋となる革新を成し遂げた点で音楽史上重要」という点でもマイケルとも重なる。

彼がマイケルの特徴としているのが、与えられた過酷な運命への挑戦だった。そこにはギリシア悲劇のあるいはシェイクスピアの悲劇に通じるものがあるという。もちろんここでヴォーゲルがほのめかしているのは(実際に言及もしていたが)ニーチェである。マイケルの音楽が最終的にニーチェが『悲劇の誕生』で論じていた音楽に結びつくというのは卓見である。マイケルの紡ぎだす音楽がニーチェのいうところの「音楽のディオニソス的要素」を多分に擁しているのは、彼の「最高傑作」"Earth Song" を聴けば納得できる。This is It 中でもそれを例証する場面が挿入されていた。バックコーラスの面々はさしずめギリシア悲劇のコロスだし、マイケルが "Earth Song" を歌っている背後で自然破壊に苦しむ人々をドラマチックに「演じて」いる場面など、まさにコロスの顕在化を図ったものだろう。

またマイケルの音楽の宗教性にもヴォーゲルは言及する。マイケルの両親は熱心な 「エホバの証人」[Jehovah's Witness]の信者だったという。マイケルもその影響を受けて熱心なクリスチャンだったようである。彼がしばしば口にする“God bless you”も単なるリップサービスでないのが分かる。ヴォーゲルはマイケルの生き様にあの過酷な運命にあっても最後まで神を信じとおした『旧約』のヨブの姿を重ねている。また、”Earth Song”を「エレミアの嘆き」[Lamentations Jeremiae Prophetae]に重ねている。このあたりの分析、とても説得力がある。

もうひとつ、マイケルの運命への挑戦、そして観客第一の姿勢に言及した箇所で、心に残ったものがあった。それはDangerousツアーでマイケルが乗っていたブリッジが折れて舞台に投げ出されても、応急処置だけで舞台に戻り最後まで舞台をつとめたというエピソードだった。

今までマイケル・ジャクソンという商標でしか知らなかった人がしっかりとした姿で立ち上がってきた。それはその商標とはおよそ程遠い、ナイーヴで繊細な、そして強い精神力を兼ね備えた一人の孤高の芸術家の姿であり、彼の死という悲劇でしか終わるしかなかった痛ましい現実だった。