yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

古賀正一さんと『静かなドン』

先週日曜日のNHK教育「心の時代」での放送、「「少年は荒野をめざした」」が再放送で流れた。日本アマチュアレスリング協会の常務理事を務め、日本人初のサンビストとなった「ビクトル古賀」さん、日本名古賀正一さんについてだった。ちなみに「サンボ」とはWikiによるとロシアの格闘技だそうである。番組では現在横浜に在住の古賀さんが自宅近くの公園でサンボの技を後進に指導する光景も放映されたが、いまだに現役さながらだった。

古賀正一さんは日本人の父とコサックの血をひくロシア人の母の間に1926年、昭和11年に旧満州のハイラルで生まれた。昭和20年終戦直前、ロシア軍が満州になだれ込んできて一家はばらばらになってしまう。その後、彼は単独でハルビンに行き、そこからなんとこれも一人で日本を目指して、歩いて錦州までたどり着いたという。戦前の満州といってもぴんとこないが、おそらくそれは気の遠くなるような距離だったとは想像がつく。それを何も持たずに、道に生える草や実を、そして捕まえた鳥や魚を食べて飢えをしのぎ、雨水を飲んで乾きをしのぎながらの一人旅だったという。そしてやっと父の故郷、柳川に到着する。まるで夢物語のようで、現実感がまったくないけれど、事実である。その様子が石村博子著の『たった独りの引揚げ隊』になっている。さっそくアマゾンで注文した。

たった独りの引き揚げ隊  10歳の少年、満州1000キロを征く

たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く

放送の中の古賀さんは人懐っこい笑顔がかわいいいかにも温和な方である。とても格闘技世界一とは思えない。武術の達人を形容する場合、「温和ながらも眼光鋭い」なんてフレーズがつかわれるけれど、彼にはそういう厳しさは感じられない。そして、彼が語る彼自身の満州脱出行にも、なにか童話をきいているような穏やかさ、温かさがあった。ただし内容は苛烈である。10歳の少年が長い逃避行を、おそらくは大人でも途中で挫折するような道のりを、一人で歩き続けたなんて、私たちの常識では想像もつかない。彼はその長い旅路をコサックの歌をうたいながら前進したのだという。昼間はコサックのやり方で食物を取り、夜は星を仰いで寝たという。

彼を一言で形容するなら、骨の髄までの「コサック」ということになると思う。コサックとしての誇り、自負をもち、その伝統を身体そのもので表象している方だった。彼の言葉で感動的だったのは、彼が亡くなったら骨をコサック出身のロシアの作家、ミハイル・ショーロホフの墓の傍に埋めて欲しいという下りだった。いうまでもなく、ショーロホフは『静かなドン』の著者である。Wikiには「第一次世界大戦・ロシア革命に翻弄された黒海沿岸のドン地方に生きるコサック達の、力強くも物悲しい生きざまを描いている」と紹介されているこの作品にはその解説通り等身大のコサックの姿が描かれている。

私がこれを「読んだ」、正確には読もうとしたのは、図書室にあるロシア作家の小説を制覇しようと意気込んでいた高校生のころで、ドストエフスキーの『悪霊』につづいてこれも頓挫してしまった。いったいロシア作家のものは一部例外はあってもやたらと長くて(『静かなドン』は全8巻)、えんえんと蘊蓄やら問答やらが登場人物の口から述べられるのにつきあわなくてならない。『静かなドン』はその蘊蓄の方ではなく、堂々巡りのように思える会話につまずいたのだと思う。

読み進められなくなったもう一つの原因は、今でもありありと思い出すことのできるあるシーンが読むのに耐えられなかったからだった。それは主人公である夫が愛人と出奔してしまい、残された妻が、妊娠中の子供を堕胎したあと出血多量で死ぬ場面だった。なんとも悲惨で同じ女性として耐えがたかった。愛人のもとへ走った夫の子供を堕すという行為は、そんな経験などまったくなかった高校生の私にも分かる心理で、なんともやりきれなかった。

著者が淡々とその続きを綴っているのが、なにか違和感があった。男性の目線なのではと子供ながらにも思った。同じことを感じる人がいるもので、ネットで「ショーロホフ『静かなドン』における ジェンダー/セクシュアリティ―␣根絶される女性の身体について ―␣」という論考に行き当たった。平松潤奈という方が2006年に発表されたものである。

ただ、古賀正一さんのコサック出身のお母さまの生き方、お母さま一族の様子を伺ったあとでは、高校生の私がもった印象が短絡的だったのかもしれないとは思ったりする。古賀正一さんがきっかけでこの小説を再読してみようかと思うようになった。すでに絶版でもあることだし、夏休みの時間のあるときに図書館で借り出そうかと考えている。