yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

平田オリザ氏の失言

平田オリザ氏が菅内閣で内閣官房参与をしていたことを、例の失言事件で知った。えらく「出世」されていたんですね。しかも鳩山前首相のスピーチライターだったこともそのとき知った。あのなんとも浮世離れしたスピーチ(といえるかどうかわからないが)を書いていたのですか。それはナットク。



1999年だったかに、彼は自身の劇団を引き連れてペンシルバニア大学にやってきた。『ソウルの市民』という芝居、それと上演前のトークセッションとに出席した。私の指導教授が彼女の教えていた演劇、日本文化のクラスの学生に観劇を奨励したからである。翌日の彼女のクラスにも彼を招待したので、その場にも居合わせた。学生からの英語での質問は彼女が通訳した。日本人はもちろん日本語でOKということだった。そこでは彼の「演劇理論」が聞けた。以下はその「平田理論」のWikiからの転載。



平田は、現代口語演劇理論なるものを提唱している。平田は、日本における近代演劇は西洋演劇の輸入と翻訳にウェイトを置いて始まったものなので、戯曲の創作までもが西洋的な論理に則って行われてきたのではないかと批判し、このためその後の日本演劇は、日本語を離れた無理のある文体、口調と論理構成によって行われ、またそれにリアリティを持たせるための俳優の演技も歪んだ形になっていったのではないか、と考えた。これを改善するために提唱されているのが、現代口語演劇理論である。



平田オリザの演劇の外見的特徴として「ときに聞き取れないようなぼそぼそした声で喋る」「複数のカップルの会話が同時進行する」「役者が客席に背を向けて喋る」などが挙げられる。また、登場人物たちはただただ舞台上で淡々と会話を続けていく。これらはみな、「人間の日常はドラマティックな出来事の連続ではなく、静かで淡々とした時間が多くを占めるが、人間のそのものの存在が十分に劇的であり、驚きに満ちている」という理念から来ており、これまでのありのままの日本語から乖離した演劇理論を見直して、日本人のあるべき自然な言葉を舞台上に再構築し、それを見つめ直していこうという意思が込められている。



ただし、演劇になじみのない者には何が起きているのかわかりにくいのではないか、と批判されることもある。

明治になって生まれた近代演劇が伝統演劇への批判から始まったため、西洋演劇の模倣の形をとるのは選択肢として当然だったかもしれない。となると、いわゆる「新劇」が翻訳調の台詞まわしから脱することができず、「不自然さ」を払拭できなかったのも、文学座、俳優座等の芝居(演劇とよぶ方が適当かもしれないが)をみれば一目瞭然ではある。ただ、平田の「理論」はここからが飛躍し過ぎのように思う。なぜ、その不自然さから逃れるために、「現実」のままに舞台を進行させる必然があるのかが理解できない。また「現実」を舞台に乗せるといっても、その乗せられる「現実」が現実そのものではなくそれを切り取ったものにすぎないのだから、リアリティの処理という問題は依然として残っている。むしろその処理そのものが演劇なので、現実に倣った形で舞台を作るということが、それほど大きな意味を持つとは思えない。



この時のクラスで、彼に新劇へのアンチテーゼとして出現した60年代から70年代にかけてのいわゆる寺山修司、唐十郎、佐藤信たちの「アングラ演劇」をどう考えるかを質問した。アングラ劇も新劇を見直す運動だったと評価できるというのが、確か彼の答えだったと記憶している。

ちょうどそのころ佐藤信の芝居、「翼を燃やす天使たちの舞踏」についてのペーパーを書いたばかりだったので、アングラ劇が伝統演劇を取り入れていることをどう考えているか、三島の芝居のことなども質問したかったが、時間ぎれだった。

そのあと、キャンパスの隣りにできたばかりのThe Inn at Pennというヒルトン系列のホテルでランチをした。平田氏伴侶の女優、ひらたよーこさん、そして7人ほどの学生が参加した。指導教授の奢りだった。その時のランチがとてもおいしかった。ホテルでの食事にはなかなかありつけなかったから、うれしかった。いろいろと質問したかったが、食べるほうに専念して、思ったほどには話はできなかった。ひらたよーこさんのお話が面白かったのを覚えている。アメリカを横断して演じているとのことで、移動が大変だとかという内容だった。

そのとき、平田氏が桜美林大学で講師をしているとちょっと誇らしげにもらしたので、「えっ、けっこう上昇志向が強いのだ」と思ったものである。だから今回のことにも驚かない。



その前日に観た『ソウル市民』は実のところ、そうimpressiveではなかった。Wikiにあるように舞台の上の会話がぼそぼそしていたのと、一体何が起きていて、どういう葛藤を核にして芝居が進行しているのかが、もうひとつピンとこなかった。葛藤が起きる必然がないので、ドラマとしての盛り上がりに欠けていたためである。芝居の背景は日本による日韓併合を控えた1909年のソウル、そのソウルで生活する日本人一家の一日が描かれていた。

Wikiを読んだことで判明したことがある。それはこの『ソウル市民』がジェイムス・ジョイスの『ダブリン市民』を意識してつけられたタイトルだということだった。以下平田オリザ紹介のブログからの引用。

イギリス統治下のダブリンの人々の姿を描いた『ダブリン市民』を射程におきつつ、篠崎家の家族の意識の流れを表現できればと考え、一市民の発する言葉が、彼の人生とそれをとりまく時間を担いうるような作品を目指した。そして、そのような言葉によって構成された本作品には、長編小説に勝るとも劣らない内容をともなった濃密な時間が流れている。*1

これはずいぶんんと好意的な批評だが、「ジョイスと比肩するのはあまりにもおこがましいのでは」、と思ってしまった。「他国の統治下にある市民の苦しみを『意識の流れ」手法をつかって描いたというのは、あくまでも教科書的理解に過ぎない。読んでいないからそういう月並みな評になる。ジョイスの作品はそんな「理解」ではとても理解できない。



平田氏はジョイスの『ダブリン市民』だけでなくあの難解な『ユリシーズ』を念頭に置いていただろう。この作品は1904年のダブリンでのある一日を、「意識の流れ」手法で、つまりだらだらした実際の会話を使った手法で描いたものだから。でもホントに読んだのだろうか。私など、原書ではペンのラバテ先生の批評理論のクラスで挑戦したが途中で敗退、柳瀬さんの名訳でも途中で撃沈されている。それでも行間から、市民の間の軋轢、どうしようもないもつれた人間関係からくる葛藤、ブラック・ユーモア、猥雑、人間くささはいやというほど伝わってきた。まさにミクロがマクロに転じるような人間模様、ドラマが展開している。

まあ、こんな怪物みたいな作品は舞台にあげるのは無理でしょうね。ジョイスの作品にあるものが単に形を模倣する、つまり実際の会話に近いダイアローグで劇を構成するだけで、そのまま『ソウル市民』に実現できるというのはムリでしょうね。