驚いたと同時に、"a sense of closure" を感じた。
2001年9月11日はアメリカ人にとっては忘れられない日であり、彼の死によって、一つの区切りがついたことは間違いない。
CNNのサイトに入るとさすがアメリカ、いろいろな意見が交錯している。Twitterではつぶやきの記録が出たという。世界からの反響だから当然かもしれない。
主流はもちろんオバマ大統領のスピーチが代表するように、長い闘いが「勝利」に終わったことへの賛辞と自負である。CNNニュースには大統領が他の高官たちとともにraidの模様の実況中継を観ているようすが載っている。これって、もし日本で同じことをしたら「人道的でない」と批判を浴びるにちがいない。
またCNNのオピニオン記事のトップにきているのは、New American Foudationという政策研究所のシニアフェローのParag Khannaという人の、「ビンラディンの殺害はあくまでも『暗殺』であり『殉死』ではない」と強調する論調である。これで法のグローバルなルールが確立したものとみなされるべきだと、彼は主張する。急進的な過激組織がいかなる政府、機関をバックにするにせよ、その政府なり機関はバックアップする組織の行動への責任があることが証明されたという。
事件当時のGeorge W. Bush大統領もこの論調と同じで(今までの言動からすると当然だけど)、「正義の鉄槌は下された」と発表している。
翻って日本での反響はどうか。テレビ局のものをいくつか観たけれど、印象に残ったのが、TBSの私の大嫌いなみのの番組にゲストに呼ばれた手嶋龍一さんの、「アメリカは暴力には力で報復する」というものだった。みのを初めとする他の人はひいていた。「民主主義」的反応が染み付いているから。
「理不尽な力には力で」といった「思想」は日本ではおそらく口にすることも、ましてや文に起こすことも憚られる。そういう風に私たちは教育を受けてきている。でもそれもある種のファッショである。アメリカでは上に上げたような意見が公表されると、それに対立する反応もすぐに出される。またあまりにも「過激」だと思われるときには、必ずやそれを揶揄したり笑い飛ばしたり、虚仮にしたりする反応が堂々と発表される。一つの見解に収斂させない。それがアメリカの民主主義なのだ。
だから日本のように見方が「人道的」だとか「民主的」だとかといった傾向を持つものに収斂させられることの方が、ある意味ファッショなのでないかと思ってしまう。フーコーのいう「パノプティコン」が最も良く機能しているのは日本ではないかと思ってしまう。そういう民主主義では誰もがゆるやかに一つの方向を向くことが期待されているので、みんなと同調したというのが言い訳となって、つまり誰もが指揮をとらず、それゆえ誰もが責任をとらない。でもその結果が今回の震災での無能なリーダーとその筋の通らない「政策」を生み出してしまったのではないだろうか。
いかにもアメリカ的な多様な反応の一つがComedy Central局のテレビアニメ、South Park (『サウスパーク』)のいくつかのビンラディンものエピソードの再放送である。エピソードのタイトルは、「ビンラディンのパンツはfarty」というもので、このfartyは普通のfarty ではなくビンラディンのあそこが小さいということと、彼がラクダとセックスしていたというほのめかしているのだそうだ(ヘぇー知らなかった)。
Comedy Central will be airing two bin Laden-centric South Park episodes. First is the episode "Osama bin Laden has Farty Pants," which is just as disrespectful to the deceased terrorist as the title implies (it involves not only bin Laden having a tiny penis, but also engaging in sexual activities with a camel).
おちはビンラディンの死になっているので、再放送されるのだろうけど、決して「愛国的」なアメリカ万歳の内容でないのでご注意。『サウスパーク』ファンの人ならよくご存知でしょうけど。このエピソード、アメリカ軍によるビンラディン殺害のあとアフガニスタンを後にする子供たち(悪ガキ)は、ちっちゃなアメリカ国旗を振りながら、"Go America"のあと、"Go Broncos" っていうんですから。
このビンラディン対応でアメリカを揶揄する内容でだったら、マイケル・ムーア監督がこれでまた映画を作るんじゃないかと楽しみである。