服部幸雄さんによると、江戸時代の歌舞伎役者がもっともこだわったのが仕内のくふう・こんたんだという。
「役者は『性根=役柄にもとることのない人間像の把握』を腹に据えた上で。事故の芸風を生かしつつ、まったき個の創造である芸の問題と向かい合う。その芸は「仕内」(演技に近い概念)を通じてのみ表し得るものであり、評価されることのできるものとなる。(中略)仕内こそは、類型の中にありながら類型を超え、些細な心理の矛盾も、また筋立ての持つ不合理もかるがると吹き飛ばしてしまい、強烈な劇的世界を出現させることのできる彼らの武器である。」
役者の初心者は、あらゆる演技術の基礎をまず体得しなくてはならない。その上で、、仕内のくふう・こんたんが課せられるのだという。先輩、師匠の芸を真似たり、盗んだりするだけではだめだという。世間の人たち、特定の職業の人がどういう生活をしているのかをしっかりと観察し、また教養も身につける努力をする。そしてそれらをすべて芸に結びつけるだけの、芸への執念がそのくふう・こんたんへとつながってゆくのだというのだ。
服部幸雄さんは現代の歌舞伎役者はそれを忘れているという。江戸時代の初代中村吉右衛門の口癖だった「役者は一生修行でございます」を例に引きつつ、
「彼ら(江戸時代の芸に真摯だった歌舞伎役者)亡きあと、本心からそれを口に出せる役者が何人いるだろうか。現代歌舞伎は美しい様式に頼り、伝承の型と筋を見せることに終始し、一番大切な財産であった『創る主体』としての役者と役者の芸を喪っているように見えるのが残念でならない。」
と結論する。
まったく同感である。この文章が書かれたのは20年以上前のことであるものの、歌舞伎の状況はよくなっているようには思えない。松竹という大興行主に「おんぶにだっこ」の歌舞伎には、そもそも期待するのが無理な話だろう。
私が大衆演劇・旅芝居に惹かれるのは、この「創る主体」をつよく旅役者に感じるからである。それをしないと観客を引き付けるのは不可能であり、そうなると存続自体が危うくなるのだから、当然といえば当然かもしれないけど。とくにトップクラスの役者さんたちにはこのくふう・こんたんを生み出す芸への執念を強烈に感じる。