今回の原発の放射能汚染が報じられたとき、Twitterで「公安9課に出動してもらったらいい」なんていう、冗談とも半分本気のようなつぶやきがあった。たしかにこういうとき、サイボーグなら放射能にやられる心配はないから、もっともな意見ではあった。人間もより一層の義体化が進めば、その可能性もなきにしもあらずかもしれない。
『攻殻機動隊』のことを知ったのは2006年から2007年にかけての1年間のペンシルバニア大学で客員研究員だったときのことだった。アメリカで日本アニメの洗礼を受けるというのも、ヘンな話ではある。それまで日本のアニメといえば宮崎駿しか知らなかったので、この作品は劇場版もテレビ版も衝撃だった。宮崎アニメについてはいくらお偉い方々が褒めちぎっても私にはピンとこなかった。それは村上春樹にもいえる。こちらは小説だけど。私はいくら傲慢といわれても自分の物差ししか信じないので、人がいかに高く評価しようが私がピンとこなければ、それはNothingなのだ。
『攻殻機動隊』に登場する草薙素子はさらに衝撃だった。完全に義体化されているにもかかわらず、自身のghostの存在とのギャップに苦悩する存在として描かれる素子。いままでの文学史上、これほどの魅力的なキャラクターが存在しただろうか。あえていうなら、『源氏物語』の紫の上くらいだろう。紫の上も源氏の「妻」という役割(義体)に自身を封じ込めることによって、そのつとめを果たすことができたのだけど、それはそっくりそのまま草薙素子である。彼女も義体に自身を封じ込めることで、初めて苦悩を媒介とせずその与えられた使命を果たしているから。
二人に共通するのはある種のニヒリズムである。客観的に自身の布置を計算し、それを了解しつつ任務を果たそうとする。でもそこに綻びが生じざるを得ない。というのも彼女たちは彼女たちを利用する者に従いはするが、本質的な同化はしていないからである。
そしてそれこそが彼女たちの苦悩の原因であった。解決するとしたら、それは「死」でもってでしかない。『攻殻』も『源氏』も素子や紫の上の死でひとつの切りがつけられるのも、そう考えれば納得できる。
草薙素子に限っていえば、その身体がまさに彼女の抱える矛盾を表象している。あれほどの「豊満な」肉体の持ち主が最後には少女の外見で再生するのだから。また紫の上もたおやかな大人の女性の形象の中に「若紫」の章に登場する少女の影を常に宿していたから。
士郎正宗にしても押井守にしても草薙素子に、日本文学史上最大傑作のヒロインの残影を投射しなかったとはいいきれないだろう。