もう2ヶ月も前のことだったか、阪急電車の車内広告で『文藝春秋』1月号の特別企画が「弔辞-劇的な人生に鮮やかな言葉」であることを知った。著名人に捧げられた45編の弔辞が掲載されていたようである。それがきっかけで、私が今まで読んだ「弔辞」、あるいは亡くなった方への言葉の中で、もっとも感動的だったものについて書き残しておきたいと思た。帰宅してから書棚を探したが、それを収録してある本が見つからないので、今までそのままになっていた。二日前に他の本を探していて、たまたま見つけることができた。それは澁澤龍彦の『三島由紀夫覚え書き』(中公文庫)である。
澁澤龍彦の三島由紀夫への弔辞、「三島由紀夫氏を悼む」はそこに収録されている。これは1970年11月25日の三島の自決の数時間後に書かれている。それは悲しみ、怒り、そして痛恨に満ち満ちた哀悼の文章で、心穏やかには読めない。
「悲しみというか、憤りというか、一種名伏しがたい思いに、私の心は立ち騒いでいる」始めた上で、澁澤は次のように三島との関係を語りだす。
「三島由紀夫氏は、何よりも戦後の日本の象徴的人物であったが、私にとっては、かけがえのない尊敬すべき先輩であり、友人であった。おつき合いをはじめたのは約十五年以前にさかのぼるが、私は自分の同世代者のなかに、このようにすぐれた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった。」
三島由起夫が澁澤龍彦のよき理解者であり、また澁澤龍彦が三島由紀夫のよき理解者であったことは間違いない。二人の関係の近さは、三島が澁澤の『サド侯爵の生涯』を下敷きにした演劇史上の最高傑作、『サド侯爵夫人』を書いたということにもみられるだろう。それはこの弔辞には言及されてはいないが。
二人の親密さ、親和性は、この弔辞の中に余すことなく描出されている。この弔辞はそれまでの、そしてそれ以降のどの三島論よりも三島の自決の本質に迫り、正鵠を射ている。
「三島氏は自分を一歩一歩、死の淵への追いつめていった。といっても、もとより世をはかなんだわけではなく、デカダン生活を清算するためでもなく、むしろ道徳的マゾヒズムを思わせる克己と陶酔のさなかで、自己の死の理論を固めていったのだ。」という箇所は、まさに三島の自決の意図をこれ以上ないほど正確に捉えている。そして、時の総理大臣が三島を「きちがい」扱いし、「理解できない暴挙」としたことに言及し、
「しかし、私は私流に(中略)三島氏は、せめて自分ひとりで見事に気違いを演じてやろうと、決意したにちがいない、と。」と、中曽根総理の妄言に反論する。そして、三島の自決を「狂気」扱いして自分たちを「安全地帯」におくご都合主義の評論家にも反論する。
「いうまでもないことであるが、狂気とは理性を逸脱したもの、有効性を超越したものである。『何の
役に立つか』とか、『何のために』とかいった発想とは、最初から無縁のものである。」と断言する。そして「この何の役に立つか」という発想によって、今度の三島氏の事件をとらえようとしているひとびとのあまりに多いのに、私は驚きあきれた。」と続ける。
そしてここからが彼の本題である。「『政治』は三島氏のアリバイにすぎないではないか。氏の秘密は。もっと奥深いところにあるのだ。」と洞察する。ここに澁澤が三島のもっともよき理解者であったことが窺える。以下、澁澤ならではの「分析」になっている。
「私は亡くなったばかりの三島由紀夫氏の秘密の内面に、やくざな分析家の泥足を踏み込ませているのだろうか。そうは思わない。なぜなら、氏にとって、内面などはどうでもよかったにちがいないからである。そんなものは、もともと他人に勝手に分析させておけばよいものだった。(中略)そして氏は、みずからの肉体、みずからの死をも、傍若無人な一個の作品たらしめたのである。」
このような弔辞をもらって、三島はさぞかし本望だったに違いない。