yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

蜷川幸雄演出「ミシマダブル」 

現在シアターコクーンでミシマダブル
『サド侯爵夫人』『わが友ヒットラー』を上演中だということを知った。3月には大阪に来るという。

私がペンシルバニア大学に提出した博士論文の一章分は『サド侯爵夫人』を論じているので、本来なら何をおいてもチケットをとるところだろうけど、配役をみて考えこんでしまった。

以下である。

「サド侯爵夫人」 東山紀之 生田斗真 木場勝己 大石継太 岡田正 平 幹二朗
「わが友ヒットラー」東山紀之 生田斗真 木場勝己 平 幹二朗

アイドル、元アイドル出演ということであれば、それに蜷川の知名度からして、チケットをとるのは難しいだろう。それでもヤフオクとかで入手できないこともないだろうけど、そこまでして取ろうとは思わない。また、がっかりしてしまうのが怖いということもある。

この芝居、それこそ誰がやろうと、それなりにサマにはなる。三島という人は歌舞伎に通暁していたこともあり、新劇俳優の力量をあまり「信用」していなかった。そのために極度に誇張された美文調のセリフにして、演技に依るよりもセリフで見せる/魅せることに頼ったと演劇論に書いているくらいである。それを例証する舞台に出会ったことがある。

2000年か2001年だったが、アメリカで博士課程の学生だった私はアメリカのサド学会に出かけた。サウスカロライナ大学で開催されたのだが、その折、大学の演劇学の教授が
『サド侯爵夫人』を演劇科の学生を使って上演した。演技は一切なしで、学生(役者)たちはただ単にセリフ(もちろんこの場合は英語訳の)を舞台に出てきて読むだけなのである。しかし驚いたことに、観客、つまり学会の参加者は皆一様に感動したのだ。三島のセリフの力を実感させられた体験だった。しかも驚いたことに、そこにただ観客として参加していた一般学生たちがこの芝居をフランス人劇作家の手になるものだと思い込んでいたのだ。

三島自身もこの芝居を男ばかりで演じるというアイデアを温めていたようである。今度の企画もそれをふまえてのものだろう。これにはすでに先行者がいて、2008年にアトリエ・ダンカンが鈴木勝秀演出で以下の配役で舞台化している。

ルネ(サド侯爵夫人) 篠井英介
シミアーヌ男爵夫人 石井正則
アンヌ(ルネの妹) 小林高鹿
シャルロット(モントルイユ夫人家政婦) 山本芳樹(Studio Life)
サン・フォン伯爵夫人 天宮良
モントルイユ夫人(ルネの母親) 加納幸和

モントルイユ夫人を加納幸和なんてすごい配役で、私は蜷川版よりもこちらを観たかった!上演にも気づかなかった迂闊さを責めている。再上演を期待している。

私が実際に舞台で演じられる『サド侯爵夫人』を観たのは1995年の渡辺守章演出、峰さを理、剣幸主演(オール女性キャスト)でだった。これは吹田のメイシアターというマイナーな劇場でみたのだけど、すばらしい舞台だった。三島の演劇を終生のテーマに選ぼうと決心したきっかけを作ってくれた舞台だった。このとき、場所が場所だけに観客数が少なかったのにもかかわらず、女優さんたち、熱演だった。そして私の隣には渡辺守章が座っておられて、ものしずかに舞台をご覧になっていた。横顔をみるまでまさかその方がご本人だとは気づかなかった。激しい舞台からは想像もつかないほどの静謐感を纏っておられた。それまでも批評を読んでファンではあったけど、より強く深く支持するようになった。三島が生きていたら、この舞台もみてさぞ喜んだだろうと残念だった。この巡演はフランスにも行き、向こうでも絶賛されていた。日本の上演は凱旋公演だったわけである。渡辺守章演出ででも再演しないだろうか。これは切に願う。