yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『切られお富』前進座公演@京都南座 1月22日夜

明日が千秋楽で、しかも昼のみでそれも貸し切りということで、急遽行ってきた。補講があったので、それが終わってから駆けつけた。2等席が6500円で普通の歌舞伎公演に比べると幾分かリーズナブルだ。三階席の最前列で、けっこうよい席だった。私が南座でみる時は、先日の顔見世ともう一回を除いて、すべて三階席の後ろの方だったから。

これからも推察されるように、空席が目立っていた。歌舞伎が今ほど人気になる前でも、もっと席がつまっていたような気がする。やっぱり前進座ということだからか。せっかくの七代目嵐芳三郎襲名興行なのに残念だった。

ここの口上、普通の歌舞伎のものとはひと味違っていた。もっと人間臭いというか、個人的というか、堅苦しい口上の形式をとっぱらって、ご自分たちの来歴、それに設立以来八十年前進座を支えてきた主要役者のこと等を客席に直接訴えかけられた。温かい雰囲気で、とても好感がもてた。

以前にブログに書いたように、この演目はずっとみたかったものなのである。去年3月にザルツブルグの国際学会で「Evil Women」をテーマにこの作品について発表した折に、観たことがないものを説明するのは後ろめたかったから。

この作品の原作は河竹黙阿弥の手になり、正式名は『処女翫浮名横櫛(むすめごのみうきなのよこぐし)』。これは瀬川如皐作『与話情浮名横櫛』、通称『切られ与三』のパロディとして書かれた狂言である。しかし、『切られ与三』があまりにも有名になったもので、黙阿弥作といえども影が薄くなってしまった。でもさすが、黙阿弥、筋が凝っていると同時に随所に名台詞が散りばめてある。なにしろ弁天小僧の例のナガーイ台詞の作者ですから。この辺りも『切られ与三』を強く意識しているのが分かる。

前進座での今回の配役は以下の通り。

切られお富:河原崎 國太郎
井筒与三郎:嵐 芳三郎
蝙蝠の安蔵:藤川 矢之輔
赤間源左衛門:中村 梅之助
女房お滝:山崎 辰三郎
按摩丈賀:中村 靖之介

お富の國太郎さんは普通の歌舞伎役者(『切られ与三』での)よりもはるかに色めいていた。コケティッシュで、同時に可愛い女が生き生きと立ち上がってきた。國太郎さんの面目躍如である。こういうところ、前進座が普通の歌舞伎の枠を超え出ているところなんだと思う。大衆演劇の女形に共通するものを感じた。型を外すというか、ずっと自由に演じていた。歌舞伎は型を外せないですものね。

与三郎はまだ初々しさの残る若侍の風情をあまり苦労なく演じていた。地がそのままという感じ。この先もっと複雑な役柄を演じられることで、芸に深みを増されるに違いない。そういう素直さがあった。

梅之助さんはもういうことなし。そこにいるだけでものすごい存在感。台詞をしゃべればなおいっそうの存在感。他を圧倒してしまう。別にこれといった大したた動きをしなくても。

残念だったのは、最後の「畜生塚」の場で後半部分がカットされていたこと。蝙蝠安を大立ち回りでお富が殺すところで幕となっていた。この続きの部分がないと、劇そのものが平板になるし、芝居の内容がまったく意味をなさなくなる。第一、なぜ「畜生塚」なのかが観客には伝わらなくなる。

お富が夫の安を殺したあとで与三郎が合流し、お富は彼が伝家の宝刀を買い戻す代金の200両を渡す。これで断絶したお家も再興、二人も一緒になれると喜んだのもつかの間、父の按摩、丈賀がやってきて、二人が実の兄妹だと明かす。そしてお富が殺した安こそが、お家の御曹司だったことが分かる。兄妹でありながら契り合ってしまったことが「畜生塚」という題の所以である。今日の前進座の舞台にも「畜生塚」という札が立ててあったのに、この終わり方だと、なぜそういう塚が明示してあるのか、説明がつかない。

このあと、お富、与三郎は自害して果てるのだ。きわめて陰惨な結末で、今日の前進座公演にはそういう影がなかった。