yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

マイケル・サンデル教授の「正義論」 12月27日

留学支援コースで、UCLAの授業でYoutubeにポストされているものの中から学生それぞれに好きなものを毎週一つ選ばせて、それについてのコメントを書かせるということをやっている。学生自身が自分の好みと英語を含む能力に応じて、選ぶことができるようにしていた。

でも2週間前からはみんなで同じものをやろうということで、巷で噂になっているハーバード大のサンデル教授の「正義とはなにか」というタイトルのレクチャーシリーズを聴くことにした。NHK教育で放送されているのを10月の終りにたまたま聞き、面白かったので例の哲学の先生との研究会でもとりあげようと考えたこともあった。そうこうするうちに、日本でも大変な評判をよび、東大が彼を招聘、また本(『これから正義の話をしよう』)まで出版されて、すっかり時の人になった。その前から、書店に立ち寄るたびにニーチェやら他の哲学者やらの箴言を集めた本が平積みになっていて驚いていた。世をあげての哲学ブームになったのだろうか。そんなわけないよね。

というわけで、第1回目、9回目、12回目のものを聴いた。

第1回目のものはその「例」であまりにも有名になった。トロリーで走っている運転手が前に4人の人がいるのに気付く。そのまま進めばその4人は死ぬ。そのとき前方の支線に一人の男が作業していた。直進せず横にそれればその男が犠牲になるだけですむ。その場合、運転手の正しい判断とはどうすることか。学生に考えさせ、意見を戦わさせる。また、状況が少し異なる例を挙げて、今回はあなたは橋の上からトロリーが4人めがけて直進して行くのをみている。あなたの横には太った人が身を乗り出してトロリーをみている。その人をトロリーの前に突き落とせば、その人の犠牲だけで4人の作業員は助かる。このケースと先ほどのケースは違うのか。突き落とすことと、支線にそれることはなぜ違うのか。こういう問題を学生に投げかけて煮詰めてゆく手法を採っている。

これはアリストテレスのいわゆる「産婆法」という師と弟子との知のキャッボールの手法で、弟子を導く方法として知られているものだ。日本の授業ではこういうやり方を採っているところは少なく、ほとんどが教師からの一方通行で終わるけれど、アメリカの授業はこの形態がほとんどだった。たしかにこのレクチャーは面白いけれど、例外ではない。私がうけた授業の大半はこのスタイルだった。

ひとつすごいと思ったのは、日常のたとえをつかって、学生を哲学の世界に引き込む手法だった。カント、ベンサム、スチュアート・ミル、ロールズ、マッキンタイヤーなんて哲学者の思想を並べても、学生にはぴんとこないだろうけれど、こういう実例を挙げて考えさせれば、哲学者の主張が身近に感じられるのは間違いない。政治哲学を日常レベルに一旦おろすことで、より深い議論も可能になるのだ。

アメリカの大学が採用している「アファーマティブ・アクション」の問題も取り上げられていて、これも面白かったけれど、日本の学生にはもうひとつぴんと来なかったようである。