yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「就活」の無意味さ

勤務先でキャリアセンター(以前は「就職課」でしたが)の前を通るたびに気が重くなっている。

たびたび報道されているように、今年は前の「超氷河期」を超えるほどの就職氷河期ということで、3年生、4年生の学生が例年よりもはるかに多く出入りしている。それに職員が対処しているのだが、「?}と思ってしまう。そのうちの何人かを知っているが、その人たちが「指導」できることは一体何なんだろうって思ってしまうから。ほとんどの人がこの職場外で働いたことのない人たちで、そういう限られた勤務経験しかない人が「指導」なんてできるのか、疑問だから。

授業でも3年生はほとんど出てこなくなっている。もちろん「就活」のためだ。卒業までにまだ1年以上もあるのに、そしてその間しっかりと力を付けてもらわなくては困るのに、それは完全におろそかになっている。

またもやアメリカと比較してしまうのだが、こういうことはほとんどなく、二回のみだった。日本語のリーディングのクラスの学生が、ボストンの就職フェアに行くので欠席したいといってきたことがあった。もう一回は、日本文化のTAをしていたときのことだ。私のセクションの学生があの有名なバフェット氏の講演会兼ワークショップに参加したいということで欠席を申し出たケースである。「就活」で授業を休むなんていう発想自体が、ありえない。高い授業料を払っているのだから、授業に出るのは彼らにとって「権利」なのである。そして大学教育にみあった力をつけていないと、いくら就職しても即刻首になるのが分かっているからでもある。

「就活」のノウハウを教えるという発想自体がありえない。もちろんキャリアセンターがあって、そこで履歴書、カバーレターの書きかた、面接の受け方等の指導がないわけではない。でも日本のようにそれ自体が目的化してしまうということはない。あくまでもそれぞれの学生が大学で培ってきたものをいかに巧く表現するかということを後押しする程度である。そのテクニックいかんによって仕事を得るか得れないかが決まるというなんて、ナンセンスだから。

企業や政府機関などの就職先もそれが分かっているから、日本のようなリクルート形態とはちがった募集の仕方をする。一番違っているのは、学生にも企業側にもこれが最後のチャンスなんていう悲壮さがないことだ。日本に比べるとわりと簡単に首にできるからもある。そしてなによりも「新卒」優先ではないから。学生側からしても、転職をするのはむしろ「勲章」で、何度失敗してもチャンスはあるから。失敗にどう対処し、それをどう生かしたかということが評価される社会なのだ。

昨日書店に立ち寄ったときに『就活地獄の真相』(恩田敏夫著)という出たばかりの本をみつけ、ぱらぱらとよんだところ共感するところが多かったので、買ってしまった。以前に『就活のバカヤロー』という本を買っていたこともある。今度の本はもっと分析的だったし、納得できた。

結論から言えば、「就活」問題はその学生、大学、企業という三プレーヤーのミスマッチから起きているという。問題点の一つは、大学が学生をこれからのグローバル化に対応できる「戦力」として育て上げていないところだという。その通りだ。学生にどういう力を付けなくてはいけないのか、はっきりしているのにそれができていない。

学生の質はあきらかに低下している。以前は企業に彼らが入社してから教育するだけの体力、余裕があったが、この厳しい世界との競争の結果、それができなくなっている。初めから能力のあるものしか雇えないのだ。ところが世界標準でみると、日本の学生の力は上とはいえない。それに英語力がない。コミュニケーション力で劣る。といった理由で、企業側もターゲットをしぼりこんでいるので、中・低と評価されている大学の学生には、入り口からチャンスがほとんどない状況になっている。

でもいくつかの成功例も挙げられていた。すべて大学が本気で教育に取り組んだ結果の成功例である。大学が総力を挙げて取り組んでいるところばかりだ。ただ、自分のところを考えると、乗り越えなければいけない壁が多くあるようで、また気が重くなる。本気度がためされ、それで大学が生き残れるかどうかも決まると思う。