yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

芝居『薄桜記』剣戟はる駒座 16日夜

お芝居は五味康祐原作の『薄桜記』。「赤穂浪士外伝」の一つで、映画化したものを、津川竜座長がお芝居にしたものです。映画はもっと長いところを芝居では1時間にまとめていますから、かなり省略がありますが、そこは座長、観客に「?」と思わせないよう、細やかな苦心のあとが伺えます。

映画での設定通り)この芝居でも(おそらく原作も)、視点は中山(後に堀部)安兵衛(不動倭さん)にあり、彼が旗本丹下典膳(座長)とどういうきっかけで出会ったか、そしてひとりの女性を巡ってどのように争い、そして友情を深めあっていったのかを、彼の視点から描いています。

浪人中の中山安兵衛は五人の侍に絡まれていた上杉家江戸家老の名代の妹・千春を助けますが、そこに千春を探して丹下典膳がやってきます。二人でこの五人を散々に打ち据えます。安兵衛、典膳は初対面ではありません。以前高田の馬場の決闘に向かう中山安兵衛に、たすきを直すように典膳が声をかけたのが二人の最初の出会いでした。それが縁となり、人生の節目節目に安兵衛と典膳は出会うことに、そして運命を共有することになります。

千春に絡んでいたのは安兵衛の倒した相手の道場仲間で、典膳は後にこの連中の逆恨みの報復を受けることになります。安兵衛を加勢したというかどで典膳は道場を破門されます。一方安兵衛は千春から上杉家仕官の誘いを受けます。このころには安兵衛は千春と結ばれることを夢見るようになっていました。

しかし、千春は許婚であった典膳と結婚し、仲むつまじく暮らしています。安兵衛は上杉家への仕官の話を断り、赤穂の浅野家家臣、堀部家と養子縁組をします。

典膳が留守中に彼を逆恨みする元同門の侍たちが押しかけ、千春を陵辱します。その上、千春が安兵衛と不義密通をしていたという噂を流します。帰ってきた典膳は「私を討ってください」と泣き崩れる千春に「なにがなんでも生き抜け」といって、彼女を離縁し実家にかえします。

実家の上杉家は納得できず、千春の兄は典膳を呼びつけ、その場で彼の右腕を切り落としてしまいます。その後、典膳は旗本の地位を追われ、行方は杳として知れなくなります。

典膳は自分を陥れた五人の元同門の侍に報復するため、彼らを探していたのです。一方安兵衛も浅野家取り潰しのため浪人になり、他の同志とともに密かに吉良への仇討ちの機会を狙っています。

二人が偶然江戸で出会ったちょうどそのとき、五人の侍の頭の銃弾による攻撃をうけた典膳は瀕死の状態に陥ってしまいます。安兵衛が彼を連れ帰りますが、典膳は彼を仇討ちに赴かせます。今は吉良家出入りのお花の師匠をしている千春がその場に駆けつけてきて、典膳を介抱します。そして、仇討ちに向かう安兵衛に吉良家の情報を告げます。

安兵衛が去ったあと、再び例の五人がやってきて、ここで片腕で瀕死状態の典膳との壮絶な立ち回りがあります。千春は典膳をかばおうとして、銃弾に倒れます。典膳は五人を殺しますが、彼もすでに蟲の息です。雪の散る中、典膳は千春の亡骸を抱いて、「千春、千春」と呼び続けます。そこで幕。



もともとは映画、それも時代劇ですから、芝居も徹底したリアリズムに則って描かれています。プロットに不自然さがないよう、工夫がなされています。津川竜さんのお芝居はそこにぴたりと納まっていて、その意味で商業演劇の路線に近いと思います。観客が「えっ、なんで」というのを極力排しています。1時間の中にもともとは長かった芝居を凝縮させるのは、並大抵の力ではできません。津川竜さんに脚本家としての並外れた力量がおありだから可能になったのだと、この芝居をみれれば分かります。

それと、観客層の年齢が高いということが背景にあるように思います。劇団四季がある年齢層の女性から支持されている(梅田の四季劇場の前にたむろしている女性軍団をみれば一目瞭然ですが)ことからも、どの年齢層にそして階層にターゲットをしぼって芝居を作るかというのは、劇団にとってきわめて重要な問題であるのは頷けます。若い世代だと(そして芝居好きであれば)劇団新感線といった、もっと「斬新」でアンチ・リアリズム風、たとえばマンガ様の?のものを好むでしょう。

また最近は歌舞伎の観客に若い世代が増えてきていますが、彼(女)たちは、「歌舞伎なるものを見て、勉強しよう!」、と構えているある種「意識した」観客です。歌舞伎はその名称が顕すとおり、もともとは「傾く」に由来するという説もある位、反リアリズム、反権力のものだったのは間違いありません。でも今じゃ完全に体制化して、お勉強の対象としてとしてしか鑑賞に堪えないものになっているように思います。すでに40年も前に三島由紀夫が嘆いていたことは、今ではより堅固なものになってしまっています。若い役者の口説、聞くに堪えないと思うことが多々あります。なによりもそのチャレンジ精神を失ってしまっているところ、南北が見たら何ていうでしょうね。だから歌舞伎は「お勉強するもの」で、楽しむものではなくなっているのです。その結果、歌舞伎を見ることがひとつのステイタスだと思う人たち(老・若ともに)によってのみ支えられているのでしょう。

大衆演劇を観に来る客がそれらの層でないのは確かです。劇団はどれほど実験的で斬新な芝居をやりたくても(実際にどうかは分かりませんが)、芝居の種類、質は否応なく観客(年齢層、好み)次第ということになります。

今までに観てきた劇団の中でも、津川竜座長の判断力、実行力は群を抜いています。年齢層の比較的高い観客の嗜好を受け止め、それに沿わせながら、なおかつそこのある種の不協和音のようなものを挿入することで、距離を確保する。こういう超絶技法を駆使しながら、芝居を書き、構成・演出しているように思えます。

そしてそれは舞踊にも及んでいます。むしろお芝居によりも、彼の好みはさりげなく舞踊のなかにとりいれられているように思います。一言で言うなら、計算しつくされた硬質の倒錯、それも二重、三重にメタ化(虚構化)された倒錯です。観客の好みに沿っているようでいて、そこにはしっかりと彼の自己主張の覆いがかかっています。観客も歓んで騙されているようです。