yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

観世銕之丞師シテの『井筒』in「能と狂言」@京都芸術劇場春秋座 2月12日

以下に当日の演者一覧を。

前シテ 里女      観世銕之丞
後シテ 紀有常ノ娘   観世銕之丞
ワキ 旅僧       森常好
アイ 里人       野村萬斎

笛       竹市学
小鼓      吉阪一郎
大鼓      亀井広忠

後見      青木道喜  河村博重

地謡      片山九郎右衛門  古橋正邦  味方玄  片山伸吾
        分林道治  梅田嘉宏  安藤貴康  観世淳夫

地謡方に片山九郎右衛門師、味方玄師を筆頭に京都勢が揃っているのがうれしい。そういえば片山九郎右衛門師は舞囃子で、味方玄師はフルの能でこの『井筒』を拝見して、当ブログ記事にしている。

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いずれもすばらしく、感動したことを思い出した。味方玄師の公演時、詩人の林和清氏の解題が非常に深く、鋭いものだった。

私の中では業平は、二条后との禁断の愛というスキャンダルのみならず、稀代のプレイボーイであるというイメージが頑としてある。だからどうしても彼が純粋に妻の紀有常娘を本当に愛していたのかというところに、疑問を持ってしまう。林和清氏はそこのところを、「この能では『むかし男』の在原業平は、あくまでも井筒の女の美点を補足する(補強する)ものとして使われている」との説を展開されていた。そうなると、この能は現実の業平と紀有常の女の間の理想化された夫婦愛を、あくまでも女の視点から描いたものとして、捉えるのも可能になるだろう。片山九郎右衛門師が上演前のプレトークで話された「理想の愛の形」という捉え方に、近くなるかもしれない。あるいは天野文雄氏が言明されたように、業平と紀有常娘の間の夫婦愛を描くというより、むしろ市井の普通の人たち(つまり、idealizeした夫婦)間の夫婦愛を描いたという捉え方もできるかもしれない。

世阿弥が『申楽談義』中、「上花也」と自賛しているだけあり、非常に美しい整った能作品であるのは間違いない。2時間に渡る舞台、それもあまり激しい動きのない舞台にまったく退屈しないのである。それほど深く内面に入り込んだ作品である。同時に二重三重になった両性具有的な仕掛けが施されていることも、見ている側を捉えて放さないのかもしれない。

渡邉守章氏はパンフレットに投稿された解説に「『待つ』こと−−<時間>の深層へ」とタイトルをつけておられるけれど、この能のテーマの一つでもある「待つ」ことの時間性を批評理論で解釈することも可能かもしれない。

観世銕之丞師の女がしみじみとその心の裡を訴えかけてきた。見る側の解釈をしようという意気込みも躱すくらい、確かな手応えでもって。例えば夫の行き先に想いを馳せるこの女の所作に表れていた。ひとつ一つの小さな所作が、深く静かな愛情を示している。それが後半部のグッと井戸を覗き込む激しさと対照的に示されていた。軸を保ちながら、ゆっくりと優雅に回転するサマが、とても美しい。銕之丞師は隅々まで計算されて演じるタイプではなく、その場の力(気)を借りて演じられる演者なのかもしれないと感じた。この日の後場にはとくにその気が満ちていた。

ワキの森常好師は関東の方で、滅多にこちらの舞台には登場されないけれど、いつもその堂々たる体躯を生かした深みのある声に感銘を受ける。

アイの野村萬斎師がすばらしかった。たまたま舞台に近い席だったこともあり、萬斎師の張りのある声が堪能できた。アーティキュレーションが明確、メリハリが効いていて、そのおかげで業平と紀有常娘の間の物語が生き生きと立ち上がってきた。私は前場と後場の間のアイの「解説」には退屈することが多いのだけれど、萬斎師の語りは実に心地よかった。もっと聞いていたかったほどだった。

私の席は左(下手)の桟敷席で、少し高くなっているので、会場全体がよく見渡せた。残念だったのは、多くの人が舞台よりもパンフレットの詞章を見ていたこと。普段の舞台でもそういうことがよくあるけれど、お勉強に来ているわけじゃないのにと、残念に感じている。

来年の企画はなんと『砧』だとか。楽しみである。以下にプログラムチラシをアップさせていただく。

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