yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

片山九郎右衛門師が小野小町を演じられた『卒都婆小町 一度之次第』in「片山定期能七十周年記念特別公演」@京都観世会館1月25日

この「記念公演」には、三島由紀夫の『近代能楽集』にコレクトされた作品、『卒塔婆小町』(三島版では「都」が「塔」)と『綾鼓』(観世流では『恋重荷』)が入っていた。昨年末に九郎右衛門師の『邯鄲』を見ているので、「充足感」があった。

『邯鄲』を見た折にも感じたのだけれど、九郎右衛門師のシテは常にどこか若々しい。邯鄲のシテは若い男性だから清新さがより強まって感じられた。それはこの『卒都婆小町』にもいえた。もちろん百歳の小町だから、ヨボヨボと登場するはずなのだけれど、橋掛かりのところをゆるゆると歩いている姿、佇む姿に「若さ」がある。想像するに、これまで他の演者が演じてきた小町像とは違った「小町」を「提出」されていたのでは、非常に新しい解釈なのではと感じた。 

同時に「観世寿夫さんだ!」とも感じた。まず謡に、そして凛としてある強靭に。寿夫さんはDVDでのものしか知らないのだけれど、まず登場した時に老人役なのにそれに合わない強靭を感じる。同じ強靭を九郎右衛門師のシテに常に感じる。その強靭が「若さ」という雰囲気でこちらに伝わってくるのかもしれない。緩慢な動き、静止した姿に強靭を感じさせるには、そこに演者の強い想いがなくてはならない。その想いを形にする執念がなくてはならない。おそらく九郎右衛門師にはそれが誰よりも強くおありなのだろう。江戸時代から続き、観世流の「京都所司代」と称された京都観世流の片山家。その父祖伝来の型がある。それは重く、濃い。それを踏まえつつも、それを壊す意気込みというか、勢いのようなものを感じてしまった。それでいて、それを古さに溶け込ませることのできる力量。それが「若い」と感じさせる所以なのかもしれない。

そして、京都観世流が「新しい」と感じるのは、九郎右衛門師が率いておられるからかもしれない。でも、九郎右衛門師には「親分」的要素がおよそ感じられないんですよね。柔和で可愛い(失礼!)な方。それが魅力的。京都観世流もとても魅力的。関西在住の身でよかった。

この日の演者一覧は以下。

シテ 百歳の小野小町   片山九郎右衛門

ワキ 高野山出身の僧   宝生欣哉

ワキツレ 従僧      御厨誠吾

 

小鼓   吉阪一郎

大鼓   亀井広忠

笛    森田保美

 

後見  大江信行  武田邦弘  味方玄

地謡  河村和晃  河村和貴  深野貴彦  田茂井廣道

    片山伸吾  浦田保親  浅井文義  古橋正邦

『卒都婆小町』(1967収録)の先代故梅若六郎師シテのDVDでの演者と思わず比べてしまった。こちらは人間国宝が勢揃ったすばらしい舞台だった。今回の『卒都婆小町』はこれから人間国宝になられる演者さんたちの舞台だった。

この日は記念公演ということもあり、能三本、狂言一本、それに仕舞九本、開演が午前11時、終演が午後5時過ぎというウルトラインテンシヴなスケジュール。当初、最後まで持つかと心配だったけれど、とても楽しくて、あっという間に時間が過ぎていた。

そうそう、観世会館外にある広報用のウインドーに豪奢な屏風を背景にした片山九郎右衛門師中央のポスターが。「京の冬の旅~The Graceful Days in Kyoto」というキャッチコピー。2020年のJR西日本製作のポスターとのこと。帰宅してネットで画像を検索したけれど、小さいものしかない。次回行った折に、撮影してこようと考えている。

以下に公演チラシの表と裏をアップしておく。

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公演終了後、送り出しに九郎右衛門師のお姉様の井上八千代さんが!帰ってゆく人たちに丁寧に挨拶しておられた。ずっと客席ででもご覧になっておられた。なんとも佇まいが絵になるお綺麗な方で、うれしくなってしまった。